第0章 未現像の産声
この物語は、東京の片隅にある喫茶店「キマイラ堂」を中心に進む。
表向きはただの店。でも実際は、帰りたい場所がある人間と、帰り方が分からない人間が迷い込む中継地点だ。
そして俺――尾田大地(通称ダダ)は、そこで起きる厄介ごとを、記者とカメラマンの目で見ていく。
正義の話じゃない。救済の話でもない。
「戻る」って行為が、どれだけ人を軽くして、同時に残酷にするか。その記録だ。
尾田大地は、生まれた日のことを覚えていない。
当たり前だ。赤ん坊の頃の記憶のバックアップ機能はない。
ただ、母から何度も聞かされた話がある。
生まれた瞬間の看護婦さんの「うわっ」という声を聞いて、どんな子が生まれてきたのかと思ったわよ。
へその緒が首に三重に巻かれて生まれてきたのよ、産声無しでね。
仮死状態で生まれてきたのか
生まれながらに死んでいたのか、素晴らしい人生のスタートだ
「呼吸がうまく入らなかったのよ。周りが急に慌ただしくなった」らしい
医者や助産師の声が少し強くなって、母の顔が青くなって、誰かが「大丈夫、大丈夫」と言った。
その一連だけが、家の中で確定した事実として残っている。
大地はそこで学んだ。
人は、空気が悪くなると声が大きくなる。
声が大きくなると、場の主導権が決まる。
決まったら、弱い方は黙るしかない。
それが良いとか悪いとかじゃない。生きるとそうなる。
三、四歳のころ。母に連れられて入った小さな店で、大地は棚の上のチョコを見つめていた。
包み紙が光る。子どもにとって光るものは、だいたい正義だ。
触ってはいけないのに触りたい。
触りたいものって、だいたい大人に怒られる物の上位互換でもある。
店のおじさんが、注意というより面白がった声で言った。
「この子、目がきれいだな。次、何やらかす気だ?」
母が「すみません」と頭を下げた瞬間、別の女性が振り返って言った。
「お母さんの声、うるさい」
音量の話じゃない。
存在が目立つのが嫌という種類の言い方だった。
母の笑顔が一瞬固まって、それでも母は笑い直した。
大地はその顔を見て覚える。
ここで言い返すと面倒になる。
だから笑って流す。
そうすると、その場は一応おさまる。
――もちろん、心はおさまらない。
でも子どもには、そこまで分からない。ただ、やり方だけ覚える。
父はよく、バイクに大地を乗せた。四百五十cc。
今思えば危ないが、当時の父にとっては「親子のイベント」だったのだろう。
振動が腹に伝わって、エンジン音で他のことが考えられなくなる。子どもにはそれが妙に落ち着く。
祖父母の家に着くと、大地は籠に入れられて運ばれた。
祖母が笑って言った。
「捨て子みたいだね」
冗談だ。分かる。祖母はそういう人だ。
ただ、冗談って、刺さる場所に当たると抜けない。
捨て子。置いていかれる子。
大地の頭に、その言葉だけが残った。
その一方で、周りの大人はよく可愛がった。
「大地」「大地」と呼ばれる。
呼ばれるほど居場所ができるはずなのに、大地は逆に「誰の期待にも合わせないといけない気」がして、変に気を使う子になる。
そういう癖が、のちにカメラを持つ癖に繋がっていく。
口で揉めるより、撮って黙る。
それが一番、場を荒らさないからだ。
第0.1章 遊んでるだけ
小学校に上がると、大地は学校が好きだった。
好きというより、“好きなふりができた”。
「行きたい」と言えば、母が安心する。
母が安心すると、家の空気が落ち着く。
子どもは家の空気に弱い。家の空気が荒れると、眠りが浅くなる。これは割と切実だ。
入学直後は、同じ保育園の子とクラスが離れていた。
休み時間に知り合いが見つからず、母は少し心配していた。
でも数週間して、校庭で同じ園の子と再会して、そこから友だちが増えた。
個人面談で先生が言った。
「尾田くん、休み時間に周りに人が多いですね。人気者です」
母は照れて笑った。
大地はその笑顔を守りたくて、揉めない動き方を覚える。
揉めない動き方。
要するに、悪口を言わない。誰かを名指しで責めない。
自分が嫌だったことも、なるべく「別にいい」と言う。
――大人が一番喜ぶ返事だ。子ども本人の心が減る。
上級生にちょっかいを出されたことがある。
押される。からかわれる。物を取られる。ありがちなやつだ。
大地は笑って言った。
「遊んでるだけ」
この言葉は便利だ。
言えば先生は「そうか」で済ませられる。親も「大丈夫」で済ませられる。
誰も悪者にならない。
――本当は悪者がいても。
ある日、騒ぎが大きくなった。友だちが怪我をした。歯が折れた、と誰かが言った。
教室の空気が変わる。視線が集まる。
「尾田、お前、ちゃんと言えよ」
言うと、誰かが怒られる。
怒られると、親が出てくる。
親が出てくると、家同士が揉める。
揉めると、明日から学校がしんどくなる。
大地は“面倒ごとの真ん中”に立ちたくなかった。
子どもなりに、現実的な計算だ。
母と一緒に相手の家へ行った。
玄関先で頭を下げると、相手の父親は怒鳴らず、静かに言った。
「目立つな。上の学年には気をつけろ」
それは説教というより、生活の知恵だった。
大地はその言葉を覚える。
目立つと、面倒が増える。
面倒が増えると、守りたい人が疲れる。
時間が経って、その子とは仲直りした。家にも遊びに行った。普通に笑った。
卒業が近づくころ、別の母親が母に言った。
「尾田くんの家には、足を向けて寝られないよ。ほんと助けてもらって」
感謝の言葉なのに、大地は胸がざらついた。
“助けた”の中に、何が含まれていたのか。
自分が黙ったことで助かったことがあったんじゃないか。
子どもは、そういう勘だけは妙に当たる。
でも重い話ほど、人は笑って運ぶ。
大地は笑うのが上手くなっていった。
――自分の心の重さを、周りにバレない程度に。
卒業式。
知らない近所の人(たぶん母の知り合いの外国人)が、母に笑って言った。
「ママ!息子さん、いい男だネー」
母は笑った。大地も照れて笑った。
正直、式の最中に言うなとは思った。空気は読むものだ。読まない人ほど自由だ。
大地はその笑いの裏で、なんとなく思う。
これからは「好き」と「嫌」を言わないまま生きるのは難しくなる。
言わないと、代わりに誰かが決める。
その予感が、のちに彼をカメラへ押し出す。
口で断言するのは苦手でも、写すならできる。
――そう思い込んだ。
第0.2章 大丈夫よ(そして初めての撮影)
中学生になると、身体だけ先に大人になった。
心は追いついていないのに、部活と上下関係と勝ち負けが始まる。
“人生、急に体育会系になるフェーズ”が来る。
柔道部の先生が家庭訪問で言ったことがある。
「尾田くん、うちのクラスに欲しかったな」
褒め言葉だ。嬉しい。
でも大地は「嬉しいです」と言えなかった。
言うと、期待される。期待されると、しんどい時に逃げづらい。
逃げづらいのが一番怖い。これは切実だ。
二年のとき、問題が起きた。
詳しく言うと角が立つタイプのやつだ。
大地はそこで、“言わないことで守れるものがある”と覚えてしまった。
母が言いかけて飲み込んだ。
「男の子同士だから……」
母も同じ癖を持ち始めていた。遺伝じゃない。生活だ。
そのとき、誰かの母親が、根拠もなく言った。
「大地くんは大丈夫よ」
理由はない。
でも、その一言で大地は少しだけ息ができた。
「大丈夫」って、事実じゃない。
“今は責めない”という宣言だ。子どもにはそれで十分だったりする。
三年の後半、母の具合が悪くなった。
それまで元気だった人の声が弱くなると、家の空気が変わる。
大地は初めて、「証拠がほしい」と思った。
説明のためじゃない。
誰かに勝つためでもない。
ただ、あとで自分が崩れないための証拠だ。
父の古いカメラを引っぱり出した。
フィルムの匂い。古い革の匂い。
部屋の中で、それだけが別の時間を持っている感じがした。
最初に撮ったのは、母の手だった。
台所の流しの前。包丁を置く指先。水滴がついた爪。
大地は思った。
――これを言葉にすると、母が“弱くなった”って決めつけることになる。
――写真なら、ただ「この手がそこにあった」で済む。
現像に出す勇気は出なかった。
出したら見えてしまう。見えたら、次に何かをしなきゃいけなくなる。
大地は“次に何かをする”のが怖かった。
だからフィルムは引き出しに入れて鍵をかけた。
鍵は鳴らない。当たり前だ。鳴る鍵は防犯的にアウトだ。
その夜、救急車の音が遠ざかった。
大地は思う。
――俺は、見てしまう。
――でも、見たものをすぐ外に出すのは違う。
――出すと、誰かが動く。動くと、揉める。
その矛盾が、彼を記者兼カメラマンへ連れていく。
言葉で断言するより、写真で“判断は読む人に任せる”形にしたかった。
それから数年。
俺は地元の小さな媒体で、街ネタと事件の間みたいな記事を拾って食っている。
大きいスクープはない。あるのは、誰かが困ってるのに誰も見ない話ばかりだ。
だから俺は、騒がずに撮る。断言せずに残す。
写真が強いのは、正しさじゃなくて「そこにあった」を逃がさないところだ。
第1部 第1章 キマイラ堂の朝
尾田大地はここ数年、朝が変だと思っていた。
正確に言うと、朝が妙に“整いすぎる日”がある。
駅が静か。改札の音が揃いすぎ。
人の足音が少ない。咳払いがない。
生活音が減ると、普通は快適なはずなのに、彼は落ち着かない。
片目の奥がじわっと痛む。
俺の左目は、昔からこういう厄介な癖がある。完全に見えないわけじゃない。でも、調子が落ちると“見えてるのに信じられない”状態になる。
まずピントが遅れる。遠くから近くに視線を移したとき、焦点が合うまで一拍かかる。次に光が刺さる。蛍光灯やスマホの白が、針みたいに目の奥へ入ってくる。最後に頭の奥が重くなる。熱っぽいのに汗は出ない、あの嫌な感じだ。
こうなると厄介なのは、痛みそのものより“手元が狂う”ことだ。
カメラの設定を変える指が一瞬止まる。ファインダーの中で被写体がわずかに泳ぐ。距離感が合わなくて、半歩ぶつかる。人の顔の表情を読むのが遅れて、返事が半テンポずれる。
医者には「疲れとストレスでも起きる」と言われた。目薬を渡されて様子見。それで終わりだ。
でも俺は経験で分かってる。これが出る日は、だいたい“現場が荒れる”。
俺が落ち着いて撮れなくなる。判断が遅れる。その隙に、物事は思ったより悪い方向へ進む。
大地はカメラバッグを肩にかけ、路地に入った。
古いコンクリの匂い、少し湿った空気。
そこにコーヒーの匂いが混じる。
匂いで思い出すほど、彼の人生は香りに支配されていない。
でもコーヒーだけは別だ。
コーヒーの匂いを嗅ぐと、頭が勝手に「落ち着け」と命令してくる。ありがたい反面、腹立つ。
看板はいつも半分だけ光っていた。
「キマイラ堂」
電球が切れてるのに直してない。
この店の“ちゃんとしなさ”が、大地は好きだった。
世の中はだいたい、ちゃんとした顔で面倒を押し付けてくる。
扉を押すと鈴が鳴る。
「いらっしゃい」
店主の声は落ち着いていた。
声が落ち着いてる人間は信用できる――とは限らないが、少なくとも今は助かる。
大地はカウンター端の席に座った。
自分で決めたわけじゃない。気づいたらここに座ってる。
“いつもの席”って言葉は嫌いだ。
いつの間にか自分の居場所が確定してしまうから。確定すると、失った時がきつい。
「今日は何にします」
「……いつもの」
言ってしまった。嫌いなのに。
片目がまた痛む。自分の言葉にイラっとする痛みだ。
客が三人いる。いや、四人かもしれない。
照明が暗いだけじゃない。“人数を数える気になれない”空気がある。
奥に、カップを両手で持った男。あまり飲まない。
窓際に、紙を広げた女。文字というより線を書いている。
近くに老人。新聞を開いてるのに、内容は読んでない。たぶん世間の空気を読んでる。
誰も大声では話さない。
でも店はうるさい。
音じゃない。“気配”がうるさい。人が言わないことが多い店ほど、逆にうるさい。
コーヒーが来た。
苦い。普通に苦い。砂糖なしは普通に苦い。
大地は一口飲んで、ようやく息を吐いた。
「……外、静かですね」
奥の男が言った。飲まない男だ。
店主はすぐ返さない。
すぐ返すと会話が軽くなる。軽くなると、口が滑る。口が滑ると面倒が増える。
この店は、面倒が増えるのを嫌う。
男が続ける。
「最近、朝が変じゃないですか。静かすぎる」
窓際の女が顔を上げた。
「静かだと良いじゃん」
老人が鼻で笑う。
「良いわけねえだろ。静かすぎるのは大抵ロクな前触れだ」
男はカップの縁を指でなぞった。
「戻りたい朝があるんです。戻れないのに」
大地の片目が痛む。
“戻りたい朝”という言い方が、妙に具体的で、妙に厄介だ。
店主が言った。
「君、また変なものに触れたな」
男は笑おうとして失敗した。笑い方が下手だ。
下手な笑いはだいたい本音だ。
「触れた。……ここ、似てるから」
窓際の女が聞く。
「何に似てるの」
男は答える。
「向こうの朝に」
老人が舌打ちした。
「“向こう”って言い方、便利だな。説明しないで済む」
大地が言った。
「向こうって、どこだよ」
男は大地を見た。
「帰りたい場所」
その言葉で、店の空気が少し重くなる。
店主が、ここで一度だけ“現実的に”言い切った。
「この店は、“帰りたい奴”と“帰りたくない奴”と“決められない奴”が集まる場所だ。外に漏れると厄介になる」
大地は理解する。
ここは喫茶店の顔をした、相談所みたいなものだ。
しかも、役所の相談窓口よりややこしい種類の。
店主が大地を見る。
「君は撮る人間か」
大地は頷く。
「……スチール。記者もやる」
「出すのか」
その質問で息が詰まった。
出せば、話が大きくなる。
話が大きくなれば、助かる人もいる。
同時に、壊れる人もいる。
大地は結論を避けて言った。
「必要なら」
老人が小さく笑う。
「便利な言い方だな。“必要なら”って言う奴が一番、後で責任を背負う」
店主が釘を刺すように言った。
「ここで見たことを、軽く記事にするな。写真も慎重に。人が増えると、事故も増える」
大地はコーヒーを飲み干した。
苦味が残る。
この店の話は、だいたい苦味が残る。
第1部 第2章 置き土産の棚
キマイラ堂の棚には、喫茶店らしい物が少ない。
豆やカップの間に、明らかに場違いな物がある。
錆びない釘。
透明すぎるフィルム。
鳴らないオルゴール。
読めない領収書。
老人が言った。
「触るなよ」
大地は反射で手を引っ込めた。
自分でも驚く速さだった。
触る前に止める反射は、人生で何度も痛い目を見た人間の反射だ。
店主が釘を一本つまんで、大地の前に置いた。
金属なのに音が小さい。
「これは、向こうから来た物だ。こっちの世界では“使い道”が変わる」
大地が聞く。
「釘が?」
老人が笑う。
「お前、素直だな。釘が釘のままなわけねえだろ」
店主が続ける。
「向こうでは釘。こっちでは、人を“その場に縛る”道具になる。だから触るな」
窓際の女が顔を上げる。
「縛るって、物理的に?」
老人が即答する。
「物理も精神も両方だ。悪いとこ取りだ」
大地はフィルムを見る。
透明フィルムは、光の通り方が変だ。角度によって、背景がほんの少し歪む。
大地が聞く。
「それは?」
店主が言う。
「“変換”の材料だ。向こうの物をこっちに馴染ませる。逆もある」
老人がぼそっと言う。
「要するに、こっちの世界のルールに合わせて“作り直す”ってことだ。便利だけど、事故も起きる」
大地はオルゴールを見る。
ただの木箱に見える。
でも、よく触られて角が擦れている。
「鳴らないのに、なんで置いてある」
飲まない男が苦笑した。
「鳴ったら終わるからだよ」
「終わる?」
男はカップを両手で包んだまま言う。
「帰る人は帰る。残る人は残る。決めてない人は――決めさせられる。だから皆、鳴らない方が都合がいい」
老人が言った。
「都合がいいものは、だいたいあとで請求が来る」
大地は思わず言う。
「……触っていい?」
店主はすぐ答えない。
沈黙のあと、言った。
「触るなら覚悟しろ。触ったら、気になって仕方なくなる。気になると、誰かに言いたくなる。言うと、人が来る。人が来ると、揉める」
老人が笑った。
「要するに“面倒が増える”。この店の言葉で言うと“太る”ってやつだ」
ここで初めて、“太る”が現実の意味を持った。
噂と人と事故が増える、ということだ。
大地はオルゴールにそっと触れた。冷たい。
でも、誰かが何度も触った跡がある。
そのとき、入口の鈴が鳴った。
入ってきた男は、やたらきっちりした服装だった。
靴が綺麗。鞄が硬い。目線が落ち着かない。
“観察が仕事の人”の目だ。
店主が小さく言った。
「……来たか」
老人が呟く。
「回収屋だ」
大地の背中が冷えた。
この棚が、ただの変なコレクションじゃないと分かる。
触っていい物じゃない。触ったら巻き込まれる。
整理された男――神崎は、店内を一周見て、大地のカメラバッグで視線を止めた。
カメラじゃない。“外に出る力”を見ている目だ。
「こんにちは。置き土産、随分集まっていますね。管理したほうがいい」
店主は返さない。
神崎の“正しさ”は、返事をすると加速するタイプだ。
第1部 第3章 帰りたい/帰りたくない/決めてない
神崎が入ってきた瞬間から、店の空気が変わった。
静かになる。整う。
整いすぎると、逆に怖い。病院の待合室みたいな静けさだ。
神崎はカウンターに立ち、店主に言った。
「ここは“中継地点”でしょう。ルールが必要です」
老人が新聞を畳む。
「ルール、ルールって。お前、人生ずっと校則の中で生きてきたのか」
神崎は表情を崩さない。
「事故を減らすためです。戻る途中で行方不明になる。戻るつもりで戻れない。戻るつもりがないのに戻ってしまう。私はそれを見てきた」
窓際の女が聞く。
「事故って、具体的に何が起きるの」
神崎は言う。
「本人が“消える”こともある。残っても、意識だけが別の場所に引っ張られることもある。周りは説明できない。家族は地獄です」
“家族は地獄”だけは、比喩じゃない。現実だ。
飲まない男が小さく言った。
「決められないから事故が起きるんじゃない。決めさせられるから事故が起きることもある」
神崎は即答する。
「決めないからです」
男が返す。
「決めるのが怖いんだよ。怖いものを“決めろ”で殴ると、人は壊れる」
神崎の視線が大地に来る。
「あなたは? 記者兼カメラマン?」
大地は答える。
「……そうだ」
神崎は頷く。
「なら話が早い。証拠が必要です。外に説明できる形が」
老人が舌打ち。
「証拠で全部救えるなら、世の中こんなに揉めてねえよ」
神崎は淡々と返す。
「救える確率が上がる。確率が上がれば制度にできる」
窓際の女が言った。
「制度って、誰のため? 帰りたい人? 帰りたくない人? それとも決めてない人?」
神崎は言い切る。
「帰りたい人が第一。次に帰りたくない人。最後に決めてない人。決めてない人は、決めればいい」
その言い方は正しい。
正しいが、角が立つ。
角が立つ正しさは、人を追い詰める。
ここで大地の口が勝手に動いた。
「……中途半端が、人を生かすこともある」
言ってしまった。
店主の目が「余計なこと言うな」と言っている。
老人が「やめとけ」と言っている。
神崎の目は「分類する」と言っている。
神崎が問う。
「あなたは“決めてない側”ですか」
大地は答えない代わりに言った。
「俺は撮る側だ。決める側じゃない」
神崎は即答する。
「撮ることが決めることです」
それは現場の真理だ。
フレームを切った瞬間、外は消える。
大地はそれを知っている。
大地は苦い顔のまま言った。
「……だから、撮らないこともある」
老人が笑った。
「ほらな。こいつは“決めてない”んじゃない。“決めない”んだ。面倒だろ?」
窓際の女が、ここで名乗った。
「私、マチルダ」
名乗りは現実を進める。
進むと、戻れなくなる。
戻れなくなるのが怖いのに、名乗る。
それだけで、この女が“逃げないタイプ”だと分かる。
マチルダは神崎を見て言った。
「あなたの制度は、人を助けるかもしれない。でも、人の自由も削る。削られた人は、結局また壊れる」
飲まない男が頷く。
「朝が変になる」
老人がぼそっと言う。
「人も変になる。俺はそれを見た」
全員の視線が大地に集まった。
まただ。
場を丸くする役が回ってくる。
笑えば収まる。
でも今は、笑ったら負ける気がした。
大地は息を吸って、苦いコーヒーの匂いで自分を落ち着かせる。
「……俺は撮る。でも、出すかは――今ここで決めない」
店主が小さく頷いた。
神崎の目が冷えた。
老人が小さく笑った。
飲まない男が、ようやくコーヒーを飲み込んだ。
その瞬間、大地の片目が痛んだ。
痛みは「後で揉めるぞ」と言っている。
だいたいこういう予感は当たる。最悪だ。
第1部 第4章 回収屋の名刺
神崎は名刺を出した。
紙が妙に厚い。会社名がやたら短い。住所も電話も載っていない。
店主は名刺を受け取らず、カウンターの上を指で叩いた。
「名刺で信用させるタイプか」
神崎は淡々と答えた。
「信用ではなく、責任の所在を示しているだけです。回収の手続きは必要になります」
老人が笑う。
「責任の所在って言う奴ほど、責任を分割して逃げるんだよ」
神崎は表情を変えない。
「逃げません。私は現場に残ります。残るから、手順が必要です」
大地は名刺を一瞬だけ見た。
「残る」という言い方は、経験者の言い方だった。机の人間はああ言わない。
店主が言う。
「手順って、具体的に何だ」
神崎は一つずつ、整理するように言った。
「第一に、持ち出し禁止。第二に、触る人間を限定。第三に、記録。第四に、帰還の試行は私の同席が条件です」
老人が言った。
「第四が本音だろ。要するに、全部お前の管理下に置きたい」
神崎は否定しない。
「事故を減らしたいだけです。あなた方は良い人かもしれない。でも、良い人が事故を止めるとは限りません」
窓際のマチルダが、紙を畳んで言った。
「良い人って言い方、便利だね。責める時に使える」
神崎が視線を向ける。
「あなたは?」
「マチルダ。ここに居る客の一人。翻訳の仕事をしてる」
神崎は頷いた。
「では、あなたも対象です。翻訳は、事故の起点になることがある」
マチルダは笑わない。
「私の仕事は、事故を起こすためじゃない」
神崎は言葉を切った。
「目的の話ではなく、結果の話です」
大地はそのやり取りを見ながら、腹の底で疲れた。
議論って、結局これだ。目的と結果の違いで殴り合う。
現場では両方起きる。両方起きるのに、どっちかしか見ない人がいる。
店主が大地を見た。
「君、撮るのか」
大地はすぐ答えられなかった。
撮ると決めた瞬間、自分も神崎の“手順側”に足を置く。
置くと戻しづらい。戻しづらいのが嫌で、今まで曖昧に生きてきた。
でも、曖昧にしていると、誰かが勝手に決める。
そのパターンも飽きるほど知っている。
大地は言った。
「撮る。ただし、ここで撮ったものは外に出さない。出すなら、条件を決めてから」
神崎が即答する。
「条件は私が決めます」
老人が吹き出した。
「早いな。胃が強いな」
大地は少しだけ笑ってしまった。
笑うと場が軽くなる。軽くなると話が進む。
進むのは嫌だが、止まっても地獄だ。
店主が言った。
「神崎。ここは喫茶店だ。役所の窓口じゃない。口調を落とせ」
神崎は一拍置いて、ほんの少しだけ声の硬さを抜いた。
「……失礼。私は回収の人間です。事故を見てきた。だから急ぐ癖がある」
大地はその言葉を、ただの言い訳だと思わなかった。
急ぐ癖がある人間は、だいたい手遅れを経験している。
第1部 第5章 マチルダの席
神崎が帰ったあと、店はまた静かになった。
静かになりすぎて、逆に会話が浮く。
店主がコーヒーを淹れる音だけが目立つ。
マチルダは、いつもの窓際の席に戻り、紙束とノートPCを開いた。
動きが慣れている。週三どころじゃない。完全に“席が固定されている人”の動きだ。
大地はカウンターの端から、ちらっと見た。
マチルダは翻訳の仕事と言った。翻訳と言っても色々ある。契約書、字幕、仕様書。
ただ、彼女の画面には、普通の文章じゃない記号が並んでいた。文字の形が、どこか違う。
大地が言った。
「それ、何語」
マチルダは画面を隠さず答えた。
「私の母国語」
老人が新聞越しに言う。
「言い方が雑だな。母国語って言えば、説明しなくて済むもんな」
マチルダは視線だけ老人に向けた。
「説明しても、信じないでしょ」
老人が肩をすくめる。
「信じる信じないの前に、俺はめんどくさいのが嫌いだ」
店主が言った。
「ここでは、信じるかは自由。ただ、外で言うな。外で言うと、人が増える」
大地は言う。
「神崎が言ってた“事故”って、何が起きるんだ」
店主は手を止めずに答えた。
「一番多いのは、帰りたい人間が“帰りたい”って気持ちだけ先に走って、身体がついていかない。結果、意識だけがどこかへ引っ張られる。周りは病気だと思う。病院は原因が分からない。家族が壊れる」
説明が現実すぎて、店の空気が重くなる。
マチルダが淡々と言った。
「それ、私の仲間が何人も経験した」
大地が思わず聞いた。
「仲間?」
マチルダは即答しなかった。
迷っているというより、言い方を選んでいる。
「……同じ場所から来た人。こっちに来るのは、珍しくない。珍しくないけど、戻るのは簡単じゃない」
老人が言った。
「簡単じゃないのに、こっちで普通に暮らしてるんだな」
マチルダは肩をすくめた。
「暮らすしかない。働かないと家賃払えない。ここ、現実はすごく現実的」
大地は笑ってしまった。
「それ、妙に説得力あるな」
マチルダが少しだけ口角を上げる。
「現実は、どの世界でも同じ。食べる、寝る、寒い、暑い、金が足りない」
老人が言う。
「お前、言うほどファンタジーじゃねえな」
マチルダは即答。
「期待されても困る」
大地はその返しが好きだった。
期待されるのが嫌。期待されると役割が固定される。固定されると逃げ道が消える。
だから彼女は、この店に居座っていられるのかもしれない。
店主が言った。
「マチルダ。今日は“例の物”は?」
マチルダは首を横に振った。
「持ってない。持ち歩かない。危ない」
大地が聞く。
「例の物って?」
マチルダは少しだけ目線を落として言った。
「耳飾り」
大地は反射で、彼女の耳を見た。
そこに穴はある。でも今は付けていない。
「それが帰還アイテム?」
マチルダは、答えた。
「片方だけ。もう一つが必要」
老人が言った。
「で、そのもう一つが、棚のオルゴールってわけか」
店の空気が一段、固くなる。
マチルダは否定もしない。
「……可能性がある。確証はない。でも“条件”は揃いつつある」
大地の片目が痛んだ。
条件が揃う、という言い方が危ない。
揃ったら終わる。終わると、誰かが泣く。誰かが怒る。誰かが得をする。
だいたい全部起きる。
第1部 第6章 耳飾りの取扱説明
次の日の夕方、マチルダはキマイラ堂に早く来た。
店主に小声で言った。
「見せる。今日は安全にできる」
店主は頷く。
「客、少ない。今ならいい」
大地はたまたま仕事帰りで寄っていた。
「たまたま」という言い訳は便利だ。実際は、気になって来た。気になると来る。面倒だ。
マチルダはバッグから、小さな布袋を取り出した。
中から出てきたのは、銀色の耳飾りだった。飾りは小さい。高級感というより、古さがある。
擦れた傷が多い。長く使われた物の傷だ。
大地が聞く。
「それ、普段から持ってたのか」
「持ってた。でも、使わない。使うと帰ってしまう可能性がある。帰る準備ができてない時に帰るのは、事故になる」
老人が言った。
「帰る準備って何だよ。荷造りか。退去立ち会いか」
マチルダが真顔で答える。
「どっちも必要」
老人は笑った。
「現実的だな」
マチルダは耳飾りを掌に乗せて、店主に見せた。
「これを付けると、私の身体は反応する。心拍が上がる。視界が狭くなる。耳鳴りがする。長く続くと気を失うこともある」
大地はメモを取る癖が出かけて、止めた。
取ったら記録になる。記録になると“外に出す準備”になる。
今日はまだその段階じゃない。
店主が聞く。
「触っていいか」
「いい。ただし、あなたが触る。大地は触らない方がいい」
大地は言った。
「俺、危ないのか」
マチルダははっきり言った。
「あなたは撮る人。撮る人は、物を“外に運ぶ力”がある。意図しなくても」
店主が耳飾りに触れた。
指先で金属を撫で、重さを確かめる。
何も起きない。
店主が言う。
「こっちの人間が触っても、すぐには反応しない。持ち主側の問題か」
マチルダが頷く。
「たぶん。私と“帰還の条件”が結びついてる」
大地が聞く。
「もう一つの条件が、オルゴール?」
マチルダは答える。
「可能性が高い。向こうの帰還装置は、だいたい二段階。片方だけだと半端に反応する。半端が一番危ない」
老人が言った。
「半端は地獄だってのは、こっちでも同じだな」
マチルダは耳飾りを布袋に戻し、深く息を吐いた。
「私、ここで三百年近く生きてる。向こうの年齢換算はややこしいから、ざっくり言う。こっちで三百年“みたいな感覚”を過ごした」
大地は思わず言った。
「三百年は、さすがに盛ってない?」
マチルダは真顔で返す。
「盛るメリットがない。盛るならもっと良い話にする。私は盛るのが下手」
老人が笑う。
「それは分かる」
マチルダは淡々と続けた。
「最初の百年は、言葉を覚えるので終わった。次の百年は、仕事を覚えるので終わった。最後の百年は、飽きた」
大地はその三段活用が妙に現実的で、変に納得してしまった。
人間の人生も似たようなものだ。桁が違うだけで。
マチルダが言う。
「私は帰りたい。でも、帰りたくない気持ちもある。帰ったら、こっちで得たものが全部無かったことになる気がする」
店主は言った。
「無かったことにはならない。ただ、持って帰れないものがあるだけだ」
マチルダは小さく頷く。
そして、大地を見て言った。
「だから、あなたには撮ってほしくない。写真は残る。残ると、私の“こっちの人生”が強くなる。強くなると、帰れなくなる」
大地は即答できなかった。
撮らないことで守れるものがある。
でも撮らないと、誰かが勝手に語る。
勝手に語られると、余計に壊れることもある。
大地は言った。
「分かった。撮らない。今日は」
老人がぼそっと言う。
「“今日は”な」
大地は苦笑した。
自分でも“今日は”を付けたのが分かったからだ。
第1部 第7章 鳴らないオルゴール
その夜、雨が降った。
雨の日は客が減る。キマイラ堂にとっては助かる日だ。
人が少ない日は、面倒が少ない。
ただ、面倒は少なくても、核心が近づく日がある。
それが今日だった。
店主が棚からオルゴールを下ろした。
いつ見てもただの木箱だ。
でも、触られた痕が多い。皆、気になって触る。気になる物ほど危ない。
マチルダは布袋を握ったまま、椅子に座った。
息が浅い。顔色が少し白い。
大地はカメラバッグを床に置き、手を膝の上に置いた。
触らないための姿勢だ。触らないと決めた人間の姿勢。
老人が言った。
「神崎は?」
店主が言う。
「今日は来ない。来たら止められる。止められたら、マチルダは一生“決められない側”に置かれる」
老人は鼻で笑った。
「じゃあ今日やるってことか。お前ら、ほんとに学ばねえな」
マチルダが言った。
「学んだからやる。学ばない人は、何も決めずに事故る」
店主がオルゴールをカウンターに置いた。
「鳴らす方法は?」
マチルダは首を横に振った。
「分からない。でも、耳飾りが近いと反応する。反応が強まれば、鳴るかもしれない」
老人が言った。
「“かもしれない”で命を張るな」
マチルダは淡々と答えた。
「命は張ってない。最悪、ここから消えるだけ」
その言い方が、軽くて重かった。
“消えるだけ”と言えるのは、消える可能性を何度も見てきた人だ。
店主が言った。
「やるなら段階を踏む。耳飾りを付けるのは最後。まず、近づけるだけ」
マチルダは布袋を開け、耳飾りを出した。
指先が少し震えている。
震えるのは恐怖だけじゃない。期待でも震える。
耳飾りを、オルゴールに近づけた。
五センチ。三センチ。一センチ。
何も起きない。
老人が言った。
「……何も起きねえじゃねえか」
その瞬間だった。
オルゴールの木箱が、カチ、と小さく鳴った。
音はそれだけ。
でも、全員が息を止めた。
音量じゃない。合図の音だ。
マチルダの呼吸が速くなった。
片目だけ涙が出た。
大地は思わず立ち上がりかけて、踏みとどまった。
触らない。介入しない。ここで動くと、余計に崩す。
店主が低い声で言う。
「マチルダ、止めるなら今だ」
マチルダは首を横に振った。
「止めたら、また三十年悩む」
老人がぼそっと言う。
「三十年を“また”って言うな」
マチルダは耳飾りを、ゆっくり耳に当てた。
付けない。まだ。
当てただけ。
オルゴールが、もう一度カチ、と鳴った。
今度は、木箱の隙間から、ほんの少しだけ空気が漏れるみたいな音がした。
風じゃない。空気の圧が変わる音。
マチルダの顔色がさらに白くなり、唇が震えた。
「……来る」
店主が言った。
「耳飾りを外せ」
マチルダは笑った。
笑い方は上手くない。
上手くない笑いは本音だ。
「嫌だ。帰りたい」
その言葉の直後、オルゴールの蓋が、勝手に少し開いた。
中身は見えない。暗い。
でも、確かに“開いた”。
大地の片目がズキッと痛んだ。
痛みは「今から面倒が増える」と言っている。
そしてだいたい当たる。ほんとに腹が立つ。
そのとき、入口の鈴が鳴った。
神崎だった。
濡れたコート。濡れてない靴。
雨の中を走ってきたのに、靴だけ濡れてない。
そういう“準備の良さ”が、一番厄介だ。
神崎は一瞬で状況を理解し、声を落として言った。
「やめろ。今は手順が無い」
マチルダは耳飾りを外さない。
「手順なんか待ってたら、私は帰れない」
神崎が大地を見る。
「あなた、撮ってるのか」
大地ははっきり言った。
「撮ってない」
神崎の目が少しだけ揺れた。
予想外の答えだったのかもしれない。
神崎にとって“記録”は正義だから。
店主が言った。
「神崎、ここは喫茶店だ。声を荒げたら終わる」
神崎は一歩近づいた。
その距離が、オルゴールの空気を変えた。
蓋がさらに開く。
マチルダが短く息を吸い、身体が硬直した。
神崎が止まる。
「……近づくと反応するのか」
老人が言う。
「お前が一番のトリガーなんじゃねえの。管理したい奴が来ると、物は逃げるんだよ」
神崎は反論しない。
反論すると、また一歩近づきたくなる。
近づくと反応する。神崎もそれが分かった。
マチルダが、耳飾りを付けた。
次の瞬間、オルゴールから、音が出た。
綺麗な音じゃない。
途切れ途切れで、歪んでいて、でも確かに“旋律”だった。
マチルダが言った。
「……揃った」
店主が叫ばずに言った。
「マチルダ、名前を言え。戻るなら、今の名前を言っておけ」
マチルダは大地を見て、短く言った。
「マチルダ」
それだけで十分だった。
長い言葉は要らない。
長い言葉は、だいたい間に合わない。
オルゴールの音が一段大きくなり、空気が一瞬、冷たくなった。
冷房じゃない。肌が感じる種類の冷たさ。
そして、あっけなく終わった。
マチルダの姿が、消えた。
光ったとか、爆音とか、そういう派手さはない。
ただ、椅子に座っていた人が、次の瞬間いない。
椅子だけが残っている。
大地は喉が乾いた。
目の奥が熱い。
泣くほどじゃない、という顔をしてしまう。
こういう時、人は泣くか、怒るか、笑うかしかないのに、彼はどれも選べない。
老人が小さく言った。
「……帰っちまったな」
店主は椅子を見たまま言う。
「帰った」
神崎は拳を握った。
「だから手順が必要なんだ」
老人が返す。
「今さら言うな。必要なのはお前の手順じゃない。お前が“誰のために動いてるか”の説明だ」
神崎は答えなかった。
答えない沈黙は、答えの代わりになる。
大地は、自分でも意外なくらい静かな声で言った。
「撮らなくてよかった」
神崎が大地を見た。
「あなたは後悔しないのですか」
大地は少し考えて、正直に言った。
「後悔する。でも、撮ってたらもっと後悔した。たぶん」
店主が言った。
「今日は閉める。全員帰れ。棚の物は触るな」
老人が立ち上がる。
「おい、コーヒー代は?」
店主が言った。
「今日はいい」
老人が笑った。
「こういう時だけ優しいな」
店主は笑わない。
「優しくしてるんじゃない。面倒を増やしたくないだけだ」
雨の音がまた大きくなった。
店の中は静かだった。
静かすぎると、現実が全部聞こえてしまう。
大地の片目が、まだ痛かった。
第2部 第1章 閉店後の片付け
店主は「閉める」と言ったあと、すぐに鍵をかけた。
カーテンも閉めた。看板も裏返した。
神崎が言う。
「まず、現場の記録を残します。誰が、何を、どこに置いたか」
店主は淡々と返した。
「今から“記録”って言うな。客が消えた直後に、それをやると、店が壊れる」
神崎は一歩引いた。
「あなたの感情を否定する意図はありません。ただ、次が起きる」
老人が椅子に座り直して言った。
「次って何だよ。次の客か? 次の事故か?」
神崎は言葉を選ばず言った。
「両方です。こういう現象は連鎖します。止めないと、増える」
大地は壁時計を見た。
まだ夜の早い時間なのに、店の中は深夜みたいだった。
店主が言う。
「大地。今日は帰れ。お前が居ると、話が余計にややこしくなる」
大地は素直に頷けなかった。
「俺が居た方がいい。神崎とあんたが喧嘩する。俺が間に入る方がまだマシ」
老人が笑った。
「お前、自分のことを過大評価してる」
大地は即答する。
「俺が居ないと、もっとひどくなる。そういう場面を何回も見た」
店主はため息を吐いた。
「……分かった。ただし、触るな。棚も、オルゴールも、何も」
大地は頷いた。
神崎がカウンターの上のオルゴールを見て言う。
「まず、オルゴールを保管します。誰かが持ち出したら終わりです」
店主が言う。
「終わり、って何が終わる」
神崎は少し間を置いて答えた。
「ここが、場所として機能しなくなる。あなたの店は、ただの“事故現場”になる」
店主はそれを嫌そうに聞いていた。
事故現場にされると、人が来る。
そして人が来ると、また事故が起きる。
老人が言った。
「じゃあ、どうする。お前の“管理”に渡すか?」
神崎は首を横に振った。
「今日は渡さない。持ち出すと、それだけで問題になる。ここで、鍵のかかる場所に入れる。鍵は二つ。あなたと私」
店主が言う。
「二つってのは、まだマシだな」
神崎は頷く。
「単独は危険です。あなたも私も、偏る」
大地が言う。
「偏るって、どう偏る」
神崎は大地を見て答えた。
「あなたは守りたくなる。私は止めたくなる。どちらも極端だと失敗します」
老人が鼻で笑った。
「お前、たまに正しいこと言うな。腹立つけど」
店主はオルゴールを布で包み、金庫代わりの古い引き出しに入れた。
鍵をかけた。鍵は確かに二つあった。
鍵を閉めた音が、小さく響いた。
その音で、やっと現実が動き出した気がした。
第2部 第2章 「失踪」扱い
次の日の朝、店主のスマホに着信が入った。
番号は知らない。
店主が出ると、若い男の声だった。
「キマイラ堂さんですか。こちら、千寿警察署です。マチルダさんという方、ご存じですか」
店主は一瞬だけ沈黙した。
沈黙は長いと疑われる。短すぎても疑われる。
店主は短く答えた。
「常連です。昨日も来てた」
「昨夜、帰宅していないと、知人から通報がありまして。最後に目撃したのがこちらだと」
店主は冷静に言った。
「帰る時刻は、いつもバラバラです。夜遅い日もあります」
「店内の防犯カメラは?」
店主は答えた。
「うちは無い」
「近隣のカメラを確認することになります。お話を伺いに行ってもいいですか」
店主は「はい」と言った。
断ると余計に疑われる。
電話を切ったあと、店主は神崎に連絡した。
神崎はすぐ出た。
店主が言う。
「来た。警察。失踪扱いになる」
神崎は即答する。
「想定内です。対応を揃えましょう。嘘は最小限。矛盾を作らない」
大地はその会話を聞きながら、胃が重くなった。
昨日の“消えた”が、今日の“失踪”に変換される。
変換されると、現実の手続きが全部乗ってくる。
老人が店に来ていて、カウンターに座るなり言った。
「おい、朝から面倒が来たな」
店主が言う。
「お前、来るなって言っただろ」
老人は笑って言った。
「俺が居ないと、お前が余計なこと言うだろ。こういう時は口が滑るんだよ」
店主は否定できない顔をした。
老人の嫌味は当たる時がある。腹立つが当たる。
神崎が言った。
「警察には“マチルダさんは昨夜、普通に退店した”で統一します。店から出た先は分からない。これが事実として成立する範囲です」
大地が言う。
「店から出た映像が無い。嘘になる可能性は?」
神崎は答えた。
「嘘にはなる。ただ、あなたが撮っていないのが大きい。映像が無いなら、確定はできない。こちらは“最後に見たのは店内。退店したと思う”までに留める」
店主が言う。
「それって、逃げじゃないのか」
神崎は言う。
「逃げではなく、現実の範囲です。あなたは“消えた”と言えば、店が終わる」
店主は黙った。
終わる、はその通りだった。
大地は言った。
「俺が話す。店主だけだと、感情で言い過ぎる。神崎だけだと、逆に怪しい」
店主は反射で言う。
「お前は関係ない」
大地は静かに返す。
「関係ある。昨日、俺は居た。居た人間が消えると、残った人間は関係者になる」
老人が言った。
「偉い。そういうの、もっと早く気づけ」
大地は返す。
「俺も今気づいた」
第2部 第3章 神崎の「所属」
警察が来る前に、神崎が店の奥で大地に言った。
「あなた、名前は“尾田大地”でいいですね。職業は?」
「映像の仕事。撮影とか編集とか」
「会社名は言わない方がいい。言うと連絡が入る。会社が絡むと、記録が増える」
大地は苦笑した。
「記録が増えるのが嫌いなんだろ、神崎」
神崎は否定しない。
「嫌いではない。危ない」
大地が聞く。
「昨日からずっと聞いてるけど、何が危ない。記録が増えたら、何が起きる」
神崎は短く言った。
「回収が早まる」
大地が目を細める。
「回収って、誰が」
神崎は一瞬だけ迷い、言った。
「“仕組み”が。人じゃない場合もある」
大地はそれを聞いて、変に納得してしまった。
人じゃないから厄介だ。責任の取りようがない。
大地が言う。
「神崎、お前の所属は何なんだよ。昨日の名刺、会社名だけで全部空欄だった」
神崎は答えた。
「言うと、あなたが余計な線を引く。線を引くと、その線に沿って人が動く」
大地は苛立った。
「そうやって曖昧にするのが、一番怖いんだよ。お前は“止めたい”って言う。でも、止めるために隠す。隠すために権限が必要になる。権限が必要になると、誰かを踏む」
神崎は大地を見て、落とさず言った。
「踏みます」
大地は言葉が詰まった。
正直に言われると怒り方が分からない。
神崎が続ける。
「踏まないと守れないものがある。綺麗に全部守る方法は、現場には無い」
店主が奥から顔を出した。
「お前ら、喧嘩するなら外でやれ。今から警察だ」
神崎は頷き、大地にだけ聞こえる声で言った。
「あなたは、踏む側になるか、踏まれる側になるか、どちらかです。中間は長く持たない」
大地は返した。
「中間で粘るのが仕事だ。撮影現場も家庭も、だいたい中間で持ってる」
神崎は少しだけ口元を動かした。
笑いではないが、否定でもない。
第2部 第4章 警察の質問
午前十一時。警察官が二人来た。
一人は若い。もう一人は年配で、質問の順番が上手い。
年配の警察官が言う。
「昨夜、マチルダさんは何時頃まで店にいましたか」
店主は答えた。
「九時半過ぎくらいまで。いつもはもっと遅い日もあります」
大地が横から補足する。
「僕も居ました。特に揉め事はなかったです」
若い警察官が言う。
「マチルダさん、最近困っている様子は?」
店主は一瞬考えてから答えた。
「仕事で疲れてる感じはあった。金に困ってるとか、そういう話は聞いてない」
年配の警察官が言う。
「交友関係は? 恋人とか、同居人とか」
店主は首を横に振る。
「詳しくは知らない。ここは喫茶店です」
若い警察官が店内を見回して言った。
「防犯カメラが無いのは、ちょっと厳しいですね。近隣の映像を当たります」
大地は頷く。
「お願いします」
年配の警察官が大地に聞いた。
「あなたは、どういう関係でここに?」
「常連です。たまたま寄った」
「たまたま?」
大地は正直に言った。
「気になって寄りました。ここ、落ち着くので」
年配の警察官はメモを取りながら、店主に言う。
「マチルダさんが帰るところ、見ましたか」
店主は答えた。
「見てません。僕はカウンターの中にいました。店内で最後に見た、というのが正確です」
神崎は店の隅に立っていた。
警察官は神崎にも目を向ける。
年配の警察官が言う。
「そちらの方は?」
神崎は淡々と答える。
「知人です。昨夜、用事があって寄りました」
「仕事は?」
神崎は言った。
「個人事業です」
「内容は?」
神崎は躊躇なく言う。
「片付け」
大地は心の中で「うまい」と思った。
嘘ではない。具体的でもない。余計な線も引かない。
若い警察官が言う。
「片付け、ですか……」
神崎は頷いただけで黙った。
黙ると警察は踏み込めない。踏み込むには根拠が要る。
年配の警察官が最後に言った。
「分かりました。何か思い出したら連絡ください。あと、マチルダさんから連絡があった場合も」
店主と大地が「はい」と言った。
警察が帰ったあと、店主は椅子に座り、息を吐いた。
老人が言った。
「おい、今ので十分“面倒の入口”だぞ」
店主が小さく言う。
「分かってる」
神崎が言う。
「ここから、しばらくは“触らない”。次の現象が起きる可能性がある。あなたの店は、今、強い状態変化の直後です」
大地が言う。
「難しい言い方やめろ。要するに、また何か起きるってことだろ」
神崎は頷いた。
「はい。次は、別の客が来ます」
店主が眉をひそめる。
「マチルダみたいな?」
神崎は答えた。
「“帰れなかった人”です」
大地は黙った。
帰れなかった、という言い方が重い。
帰った人が消えて、帰れない人が残る。
その順番は、現実でもよくある。運がいい人と悪い人の差が出るだけだ。
老人が言った。
「つまり、次はもっと面倒だな」
神崎は淡々と言った。
「はい。もっと面倒です」
第2部 第5章 次の客
昼過ぎ、店主は看板を出さなかった。
営業を休むつもりだった。
それでも、ノックは来た。
控えめに二回。間を置いてもう一回。
店主がドアを開けると、若い男が立っていた。二十代後半。服は普通。荷物は小さいリュックだけ。目の下が少し赤い。
男が言った。
「すみません。ここ、キマイラ堂ですよね」
店主は答える。
「今日は休みだ。ごめん」
男はすぐ引かなかった。
「一杯だけ、だめですか。水でもいいです」
店主は迷った。
迷っている間に、男が店の中を覗いた。
その瞬間、奥から神崎が出てきた。
神崎は男を見て、表情を変えずに言う。
「入って。外だと目立つ」
店主が小声で言う。
「おい」
神崎が返す。
「この人です。昨日言った“次”」
大地はカウンターの内側にいた。
営業しないはずだったのに、なぜか店に残っていた。残ってしまった。
男が席に座る。手が少し震えている。
店主は水を出した。コーヒーを出す気力がない。
男は水を一口飲んで言った。
「昨日、ここに来た人が……いなくなったって聞きました」
店主が言う。
「誰から聞いた」
男は答える。
「俺の知り合いが、マチルダさんの知り合いで。連絡がつかないって。で、最後に居たのがここだって」
店主は短く言った。
「警察が動いてる。うちは協力してる。これ以上は言えない」
男は頷いた。
「分かってます。俺は、別件で来ました」
神崎が言う。
「名前」
男は答える。
「篠宮。篠宮 恒一(しのみや こういち)」
神崎が続ける。
「目的」
篠宮は一度だけ目を閉じて、言った。
「俺、帰れないんです」
店内が静かになった。
店主は反射で言った。
「家に帰れないって意味なら、相談先が違う」
篠宮は首を横に振る。
「家じゃない。俺の“元のところ”に」
大地は言葉を飲んだ。
昨日のマチルダと同じ言い方だ。違うのは、篠宮は隠さない。
神崎が言った。
「いつから」
篠宮は答えた。
「三ヶ月前。気づいたら、こっちにいました。最初は頭がおかしくなったと思った。でも違う。俺は元の場所に戻らないといけない」
店主が言う。
「戻らないと、どうなる」
篠宮は言った。
「俺の体が持たない。こっちの飯は食える。でも、何かが足りない。寝ても回復しない。日が経つほど、手が震える」
篠宮は両手を見せた。確かに震えている。
神崎が言った。
「昨日の件を聞いて来たのは、正解です。ここは“戻るための道具”がある」
店主がすぐに言う。
「勝手に言うな」
神崎は店主を見ないで続けた。
「あなたは一つだけ答えて。あなたは、昨日この店の中で“変な音”を聞きませんでしたか」
篠宮は即答した。
「聞いた。昨日じゃない。俺は三日前、路地で聞いた。古い音。小さい音。耳の奥に残る音。追いかけたら、この店に着いた」
店主が黙った。
オルゴールの音の話だ。篠宮は外で聞いたと言っている。昨日の音が、店の外に漏れている可能性がある。
老人が遅れて入ってきて、篠宮を見て言った。
「また増えたのか。お前ら、本当に学ばないな」
篠宮は老人に怯えなかった。むしろ少し安心した顔をした。
「この店、普通じゃないんですよね」
老人が笑った。
「普通にしようとしてるのが一番無駄だ。で、お前はどこから来た」
篠宮は答えた。
「……言うと、信じないと思う」
老人は即答する。
「信じるかどうかは後だ。まず言え」
篠宮は口を開いた。
「俺がいたのは、“海が空にある場所”です」
店主が言った。
「やめろ。そういうのは無しだ」
大地が言った。
「店主、止めるな。本人は真面目に言ってる」
店主は大地を睨んだが、黙った。
神崎が篠宮に言った。
「詳しくは後。まずは確認する。篠宮さん、あなたはここに来る前に、“耳飾り”か“オルゴール”に触れていませんか」
篠宮は首を横に振る。
「知らない。そんなもの」
神崎は頷いた。
「なら、あなたは“きっかけ”を持ってない。持ってない人が戻るには、別の条件が必要です」
店主が言う。
「条件って何だ」
神崎は答えた。
「ここで確かめる。今日は帰さない」
篠宮の顔が少し固くなった。
「帰さない、って……」
神崎は冷たく言った。
「あなたが勝手に動くと、また失踪が増える。警察が増える。店が終わる。あなたも終わる」
大地は思った。
神崎の言い方は強い。でも筋は通っている。
そして今の篠宮は、強く言われないと止まらない目をしている。
第2部 第6章 確認作業
店主は仕方なく、最低限の“確認”に同意した。
神崎が指示を出す。
「店主、店の入口と裏口を施錠。カーテンを閉める。外から見えない状態に」
店主は言い返した。
「昨日からずっとそれだ。俺の店が秘密基地みたいになってる」
老人が言った。
「秘密基地じゃなくて、事故現場な」
店主が舌打ちした。
神崎は大地に言う。
「あなたは記録を取らない。スマホは机の上に置く。電源は切らないでいいが、手に持たない」
大地は答えた。
「分かった」
篠宮が言った。
「撮らない方がいいんですか」
大地は言った。
「撮ると、余計ややこしくなる」
篠宮は苦笑した。
「現代って面倒ですね」
老人が言った。
「お前の言う現代って、こっちの現代だろ。帰りたいなら、文句言ってる暇ないぞ」
篠宮は「すみません」と言った。
神崎が棚の前に立ち、店主に言う。
「触るのはあなた。私は見てるだけ」
店主が言う。
「一番いやな役割分担だな」
神崎は淡々と答える。
「嫌でも、それが安全です」
店主は引き出しを開け、布に包んだオルゴールを出した。
篠宮の視線が一気にオルゴールに吸い寄せられた。
篠宮が言う。
「それ……」
店主が言う。
「触るな」
篠宮の手が止まる。
止まったが、目は止まってない。
神崎が言った。
「篠宮さん。あなたは“音”に反応した。なら、まず確認するのは三つ。
一つ、音に対する体の反応。
二つ、触れた時の反応。
三つ、あなたの“帰還条件”がこの店にあるかどうか」
店主が言う。
「人体実験みたいな言い方すんな」
神崎が答える。
「安全確認です」
篠宮が言った。
「やってください。俺、もう限界なんです」
神崎は店主を見る。店主は嫌そうに頷いた。
店主がオルゴールを机に置く。
鍵は閉まっている状態のまま。ゼンマイには触れていない。
神崎が篠宮に言う。
「近づいて。30センチまで」
篠宮がじりじり近づく。
手の震えが少し増える。
大地は気づいた。篠宮は怖いから震えているんじゃない。体が勝手に反応している。
神崎が言った。
「止めて。今の感覚を言葉に」
篠宮は息を吸って言う。
「胸が、変です。気持ち悪いじゃない。苦しいでもない。落ち着かない。耳が熱い」
神崎が頷いた。
「次。1メートル離れる」
篠宮が離れると、震えが少し減った。
神崎が言う。
「反応は確かにある。次、触れる。店主、布越しに篠宮さんの手の甲に、オルゴールを軽く当てて。ゼンマイは回さない」
店主が渋々、布越しにオルゴールを当てる。
篠宮の肩が跳ねた。
息が止まった。
篠宮が言った。
「……今、聞こえた」
店主が言う。
「鳴らしてない」
篠宮は首を振った。
「耳じゃない。頭の中。古い音。短い。最初の一音だけ」
神崎が言った。
「それが“鍵”の反応です」
店主が言う。
「鍵って言い方やめろ。現実の鍵は俺が持ってる」
老人が笑った。
「現実の鍵だけで片付くなら、こんな面倒起きてない」
神崎は篠宮に言う。
「篠宮さん。あなたはオルゴールに反応する。つまり、戻る可能性がある。ただし、昨日みたいに“勝手に揃って消える”形にはしない」
店主が即座に言った。
「勝手に消えるのが嫌だって言ってるんだ、俺は」
神崎が答えた。
「同感です。だから手順が必要です」
大地が言った。
「手順って、具体的には」
神崎が言った。
「今日、帰還はさせない。まず情報を揃える。篠宮さんが“元の場所”で持っていた物、記憶、習慣。何が不足しているのか。
それを聞いた上で、オルゴールの作動条件を探る。昨日の再現はしない」
篠宮は焦った顔をした。
「今日じゃないんですか」
神崎ははっきり言う。
「今日やると、あなたは不安定だから失敗する。失敗すると、あなたが消えるだけじゃ済まない」
店主が言った。
「それ何。周りも消えるのか」
神崎は答えた。
「可能性はある。昨日は運が良かった」
店主は顔をしかめた。
“運”という言葉が嫌いそうだった。
大地も嫌だった。
現実の話に、運を混ぜると、全部が曖昧になる。
老人が言った。
「つまり、運じゃなくて確率だろ。お前、確率って言え。店主が怒る」
神崎は少し間を置いて言い直した。
「確率の問題です。昨日は低い方を引かなかった。それだけ」
店主は黙った。
言い直しても腹は立っている。
第2部 第7章 神崎の電話
篠宮を店の奥の席に座らせ、店主はインスタントのスープを出した。
食事じゃないと分かっている。でも胃に何か入れないと、篠宮が倒れそうだった。
大地は篠宮に聞く。
「この三ヶ月、何してた」
篠宮は答える。
「働いてました。こっちの社会で生きないといけないから。住民票もないのに、バイト先見つけて、ネットカフェで寝て。身分証が無いと詰む場面が多い。だから、拾ったスマホを売って、偽の身分証作って……」
店主が強く言った。
「犯罪の話はやめろ」
篠宮はすぐに黙った。
大地が言った。
「店主、今は責める時間じゃない。生きるのに必要だったんだろ」
篠宮は小さく頷いた。
神崎が店の外に出て、電話をかけた。
戻ってきた神崎は表情を変えず、店主に言う。
「あなた、ここ数日、近所で“聞き込み”が増えます。昨日の失踪絡みです」
店主が言う。
「警察か」
神崎は首を横に振った。
「警察だけじゃない。探偵。記者。SNSの暇人。全部来る」
大地が言う。
「もうSNSで回ってるのか」
神崎は答える。
「回ります。失踪は話題になる。特に“外国人風の女性”は回る。悪意じゃなくても回る」
店主が言った。
「やめろ。余計に現実的なこと言うな」
神崎は続けた。
「対策は二つ。
一つ、当面は店を閉める。
二つ、篠宮さんを外に出さない。出すなら、今日ではなく、身元の整理をしてから」
店主が噛みついた。
「身元の整理って何だ。役所に連れてくのか。病院か。警察か」
神崎は答える。
「全部、状況次第。だが今は、彼は“突然現れた身元不明者”に近い。警察に見つかれば、保護という名目で隔離される可能性が高い」
篠宮が青い顔で言った。
「隔離されたら、戻れない」
神崎は答える。
「戻れない可能性が上がる。だから、ここで情報を揃える」
老人が言った。
「お前、結局ここを“収容所”にする気か」
神崎は淡々と返す。
「収容所にはしない。けど、自由にさせて事故を増やす気もない」
店主が言った。
「神崎。お前の電話、誰にかけた」
神崎は答えない。
大地が言った。
「答えろよ。昨日からそれで揉めてる」
神崎は一度だけ、大地を見て言った。
「“保全”の協力者です。名前は言えない」
店主が言う。
「つまりお前の後ろに組織がある」
神崎は短く言った。
「あります」
店内が固まった。
大地が言った。
「だったら、説明しろ。何の組織だ。行政か。警察か。企業か」
神崎は言った。
「あなたが一番嫌がる答えです。複数です」
店主が言った。
「ふざけるな」
神崎は引かなかった。
「ふざけてない。現実の利害が重なってるだけ。あなたの店を守りたい人もいる。利用したい人もいる。どちらもいる。だから単独で動くと負ける」
大地が言う。
「負けるって何だよ」
神崎は答えた。
「奪われる。店も、道具も、人も」
篠宮が小さく言った。
「俺も奪われるんですか」
神崎は頷いた。
「その可能性はあります。だから、あなたは軽率に外へ出ない。SNSに書かない。連絡先も勝手に増やさない」
篠宮は両手で頭を押さえた。
「俺、ただ帰りたいだけなのに」
老人が言った。
「帰りたいだけ、って言う奴ほど面倒を連れてくる」
篠宮は黙った。
反論できない顔をした。
第2部 第8章 大地の選択
夜。店は閉めたまま。
外に灯りは漏らさない。中の会話も小さくした。
大地は一人でカウンターを拭いていた。
拭く必要はない。でも手を動かしてないと、落ち着かない。
店主が言った。
「大地。お前、明日から来るな」
大地は拭く手を止めた。
「なんで」
店主は言う。
「巻き込みたくない」
大地は言った。
「もう巻き込まれてる。昨日も今日も、俺は居た。警察にも顔を見られた」
店主は声を荒げた。
「だから来るなって言ってるんだ。ここから先はもっと汚くなる」
大地は言い返す。
「汚いのはもう見てる。篠宮は身分証もなくて、生きるために犯罪に手を出した。マチルダは消えた。店は閉めた。警察も来た。ここから何が増えるって言うんだ」
店主は黙って、引き出しの鍵を見た。
オルゴールの鍵。二つのうちの一つ。
店主が言った。
「お前が“撮る人間”だからだ。撮る人間は、最後に撮りたくなる。撮りたくなると、絶対に余計なものが映る」
大地は言った。
「俺は撮らないって言った」
店主は返す。
「言うだけなら誰でもできる。現場で自分を裏切るのが一番簡単なんだ」
大地は反論できなかった。
自分でも分かっている。
撮る人間は、追い詰められると撮る。証拠が欲しくなる。逃げ道を作りたくなる。
神崎が静かに言った。
「店主の言う通りです。あなたは善意で撮る。でも、善意の記録は誰かの武器になる」
大地が言った。
「ならどうすればいい。俺は何もしないで帰れって?」
神崎は答えた。
「一つだけ、してほしいことがあります」
店主が嫌そうに言う。
「やめろ。こいつを使うな」
神崎は店主を無視して、大地に言った。
「あなたの“仕事の連絡網”を一旦切ってください。明日から数日、連絡が取れない状態を作る。仕事を止める。外に出る理由を減らす」
大地は言った。
「それは無理だ。家庭もある。仕事もある」
神崎は言った。
「無理じゃない。損するだけです」
大地は苛立った。
「損するだけ、って簡単に言うな」
神崎は淡々と返す。
「あなたがここに居続けるなら、損では済まない可能性がある。あなたの家族のところに“変な人”が行く。あなたの会社に問い合わせが行く。あなたの住所が出回る。そうなれば、あなたは勝手に撮られる側になる」
店主が低い声で言った。
「だから来るなと言ってる」
大地は息を吐いて言った。
「……分かった。明日は来ない。でも、完全には切れない。最低限の連絡はする」
神崎が頷いた。
「それでいい。完全を求めると失敗する。最低限でいい」
老人が言った。
「おい神崎。珍しく優しい言い方したな。気持ち悪い」
神崎は表情を変えない。
「最適解です」
老人が笑った。
「最適解って言えば許されると思ってる顔だな」
店主が言った。
「で、篠宮はどうする」
神崎は答えた。
「今夜は店の奥で寝かせる。明日、本人から“元の場所”の情報を全部吐かせる。言葉にならない部分も含めて。
それと並行して、オルゴールの“作動条件”を洗い出す。昨日の再現はしない」
大地が言う。
「洗い出すって、どうやって」
神崎が言った。
「昨日の状況を、事実だけ並べる。
・オルゴールが鳴った
・耳飾りが揃っていた(店主が見た)
・マチルダが触れた
・一瞬で消えた
ここまでが確定。次に、確定してない部分を分ける。
・何秒鳴ったか
・鳴った曲
・誰が最初に触れたか
・直前の会話
これを、あなたの記憶も含めて整える」
店主が言う。
「曲は分からない。俺は音楽に詳しくない」
老人が言った。
「曲が分からないなら、分からないでいい。分かったふりが一番いらない」
大地は黙って頷いた。
分かったふりをしない。これは大事だ。
神崎が最後に言った。
「大地さん。あなたは明日、ここに来ない。その代わり、あなた自身の記憶を書き起こしておく。スマホのメモでも紙でもいい。
ただし、外部に送らない。共有しない。保存は手元だけ」
大地は答えた。
「分かった」
店主が言った。
「お前が本当に来ないなら、少し助かる」
大地は言った。
「来ない。でも、逃げない」
店主はそれ以上言わなかった。
言えば感情が出る。今は感情を出すと壊れる。
奥で篠宮が咳をした。
寝たふりをしていたが、起きていたのかもしれない。
神崎が小さく言った。
「明日が山です」
店主が言った。
「山って言葉、嫌いだ」
神崎は言い直した。
「明日が分岐点です」
店主は黙って、鍵の束を握り直した。
第2部 第9章 書き起こし
翌朝。大地は自宅のテーブルに座っていた。
机の上にはスマホとノート。コーヒーは冷めている。
店に行かない。約束した。
その代わり、神崎に言われた通り、昨日と一昨日のことを「事実だけ」で書く。
大地はスマホのメモを開き、箇条書きにした。
- 12/?? 15:40頃:店に入った。営業中ではなかった。
- 店主は落ち着いていたが、苛立ちが見えた。
- 神崎が先に居た。
- マチルダはいつも通り、奥の席にいた(この時点ではいつも通り)。
- 引き出しから布包みが出た。
- 店主は「触るな」と言った。
- 神崎は手順を言った。
- オルゴールが鳴った(店主がゼンマイを回していないと言った)。
- 耳飾りが揃った(店主が見たと言った)。
- マチルダが触れた。
- 消えた。
大地は、ここまで書いて止まった。
「曲」「秒数」「直前の会話」。それが曖昧だ。
大地は耳を澄ませる癖がある。音の仕事もしてきた。
それでも昨日の音は思い出せない。
理由は分かる。驚きで頭が固まっていた。
大地は、曖昧なものを曖昧なまま書くのをやめた。
代わりに、「分からない」と書いた。
- 鳴った曲:分からない
- 鳴った長さ:分からない
- 最初に触れた人:分からない(ただし、マチルダが触れて消えた)
- 直前の会話:覚えている断片だけ
- 店主「触るな」
- 神崎「手順」
- マチルダ「……それ、音」
- それ以降、記憶が飛ぶ
大地はメモを閉じた。
「分からない」を残すのは気持ち悪い。
でも、分かったふりをしないと決めた。
そこへ、仕事の通知が来た。
返信したくなる。指が動く。
大地は一度スマホを伏せた。
神崎の言葉が頭に残る。「最低限でいい」。
大地は最低限の返事だけ打った。
「体調不良で数日レス遅れます。急ぎは電話ください」
それ以上は書かない。
スマホを離して、ノートに同じ内容を手書きした。
手で書くと、余計な言葉が減る。
書き終えた頃、店主から一件だけ着信があった。
大地は一瞬迷ったが、出た。
店主の声は低い。
「大地。来るなって言ったが、今すぐじゃなくていい。夕方、電話だけ出ろ」
大地が言う。
「篠宮、どうした」
店主が言った。
「寝た。今は落ち着いてる。ただ、神崎が外で何か嗅ぎ回ってる。やばい匂いがする」
大地が言う。
「警察?」
店主が答える。
「それだけじゃない。昨日の夜から、店の前を通る回数が増えてる。誰かが店を見てる」
大地は黙った。
店主が「見てる」と言う時は、確信がある。
店主が続けた。
「お前のメモ、できたか」
大地が答える。
「できた。分からない部分は分からないって書いた」
店主が言った。
「それでいい。夕方、神崎に伝えろ。電話で」
大地が言う。
「分かった。……店主」
店主が言う。
「何だ」
大地は言った。
「俺、逃げない。でも、勝手に動かない」
店主は短く言った。
「それが一番助かる」
電話は切れた。
第2部 第10章 篠宮の情報
その頃、キマイラ堂。
店は閉めたまま。カーテンも閉めてある。
篠宮は奥の席で起きていた。
顔色は昨日より少し良いが、目の焦りは消えていない。
神崎が、机に紙を置いた。
質問項目が並んでいる。箇条書き。番号付き。
店主が言った。
「取り調べかよ」
神崎は言う。
「取り調べじゃない。整理です。本人が戻るために必要」
老人が言った。
「本人が喋らないなら、何も始まらない。喋らせろ」
篠宮が言った。
「喋ります。全部」
神崎が言う。
「では順番に。
- 名前は本名か
- 年齢感覚
- 元の場所での職業
- 元の場所の生活(食事・睡眠・通貨・移動)
- こっちに来た瞬間の状況
- こっちでの体調の変化
- “音”を聞いた場所と時間」
篠宮は頷いた。
「本名です。年齢は…元の場所だと二十六。こっちでも同じだと思います」
店主が小声で言った。
「思いますって何だ」
篠宮は言った。
「時間の感覚が少し違う。元の場所は、日が長い。夜が短い。だから、二十六が正しいかは断言できない。でも体の感じは二十代後半」
神崎は淡々と記録する。
「職業」
篠宮が言った。
「整備です。機械の整備。船の整備」
店主が反応する。
「船?」
篠宮は頷く。
「俺のいた場所は、海が上にある。海の中を泳ぐんじゃない。海が空みたいに広がってて、その中を船が走る。船は浮いてるんじゃなくて、吊られてる感じ。だから整備が必要」
老人が言った。
「吊られてる? ワイヤーか」
篠宮が首を振る。
「ワイヤーじゃない。素材が違う。説明できない」
神崎が言う。
「説明できないなら、できないでいい。次。生活」
篠宮が言った。
「飯は、魚と藻と乾いたパンみたいなやつ。水は薄い塩水。寝るのは短い。睡眠は2〜3時間単位で、何回かに分ける。通貨は金属片。移動は船か、歩き」
店主が言った。
「薄い塩水飲むのか」
篠宮が頷く。
「それが普通です。こっちの真水は最初、喉が痛くなった」
神崎が言う。
「こっちに来た瞬間」
篠宮は、少し間を置いて言った。
「整備してた。船の腹側。暗い場所。工具箱を開けた瞬間、音が鳴った」
店主が言った。
「また音か」
篠宮は頷いた。
「短い音。金属が擦れるみたいな音。次に気づいたら、こっちの路地。夜。寒かった」
神崎が言った。
「持ち物は」
篠宮は答えた。
「作業服。工具の一部。小さい金属片。あと、丸い部品。こっちに来た時、半分なくなってた」
神崎が言う。
「その丸い部品は今あるか」
篠宮は首を横に振る。
「売りました。金がなくて」
店主が強く言った。
「だから犯罪の話はするな」
神崎は店主を止めない。
ただ、篠宮に「続けろ」と目で言う。
篠宮が言った。
「体調は、最初は平気。二週間くらいから、寝ても疲れが抜けない。三週間で手が震えた。二ヶ月目で胸が変になる。呼吸が浅い。三ヶ月目で、音を追いかける癖がついた。音が聞こえると、体が勝手に動く」
老人が言った。
「依存だな」
篠宮が言った。
「そうかもしれない。でも、俺は戻らないと死ぬ気がする」
神崎が言う。
「“音”を聞いた場所」
篠宮は答えた。
「三日前の夜。駅前から少し入った路地。古いマンションの裏。そこから、この店の方向に歩いた」
店主が言った。
「つまり、この店に引っ張られて来た」
篠宮は小さく頷いた。
神崎は、紙を一枚めくった。
「最後。あなたの元の場所で、“戻るための道具”の話はあったか」
篠宮は首を横に振った。
「帰るって概念がない。あっちでは“外”に出る奴がいない。外に出た奴は、戻るって話にならない。そもそも、外に出たら終わりだと思われてる」
店主が言った。
「終わり、って」
篠宮は答えた。
「死ぬか、化け物になるって」
老人が言った。
「いいね。分かりやすい迷信だ」
神崎は記録を止め、店主に言った。
「ここまでで確定した。篠宮さんは、帰還のための“きっかけ”を持っていない。
だが、音に反応している。つまり、きっかけは“音”側にある。オルゴールが彼を呼んだ可能性が高い」
店主が言った。
「呼んだって言い方やめろ」
神崎は言い直す。
「誘因になった可能性が高い」
店主は黙った。
第2部 第11章 条件のテスト
神崎は提案した。
「今日、無理に帰還はさせない。ただし、条件のテストはする。
昨日の再現ではない。安全確認」
店主が言う。
「安全確認って便利な言葉だな」
神崎が言う。
「便利じゃない。必要です」
テスト内容は三つ。
神崎が紙に書き、店主に見せる。
- テストA:距離反応(30cm/1m/3m)
- テストB:接触反応(布越し/素手/金属越し)
- テストC:音の起動(ゼンマイ無しでの反応/最小のゼンマイでの反応)
店主は最初に言った。
「素手はやらない」
篠宮が言った。
「俺はやっていいです」
店主が即答する。
「だめだ。昨日、人が消えた」
篠宮は黙ったが、目が反抗している。
神崎が言った。
「素手は最後。まず布越し、距離反応だけ」
店主は渋々頷いた。
テストA。
オルゴールは机に置く。ゼンマイは触らない。
篠宮は30cm。
手の震えが増える。呼吸が浅くなる。
神崎が言う。
「今の感覚を、短く」
篠宮が答える。
「耳が熱い。胸が落ち着かない。足が前に出る」
神崎が言う。
「1m」
篠宮が1mに下がる。震えが少し減る。
神崎が言う。
「3m」
3mまで下がると、反応はほぼ消える。
神崎が言った。
「距離反応は明確。次、布越し接触」
店主が布をかぶせ、篠宮の手の甲に軽く当てる。
篠宮の肩がまた跳ねる。
篠宮が言った。
「頭の中に、最初の一音」
神崎が言う。
「ゼンマイ無しで反応する。次、最小ゼンマイで一秒だけ回す。店主がやる」
店主は嫌そうに鍵をつまみ、本当に少しだけ回した。
音が鳴った。短い。
その瞬間、篠宮が膝をついた。
店主が叫ぶ。
「やめろ!」
神崎はすぐ言った。
「止める。店主、鍵を戻す。篠宮さん、目を閉じて呼吸だけ数える。今は動くな」
篠宮は床に片手をついて、必死に息を整える。
顔が真っ青だ。
老人が言った。
「ほらな。無理なんだよ」
神崎は言った。
「無理ではない。今は不安定。戻すには手順がいる」
店主が怒鳴る。
「手順って何だ。お前の手順は人を倒す手順だ」
神崎は言い返さない。
代わりに、淡々と要点だけ言う。
「分かったことがある。
最小の音で、彼の体が“引っ張られる”。
つまり、帰還は“本人の意思”だけで止められない。
昨日マチルダが消えたのは、本人が止められなかった可能性が高い」
店主は黙った。
その説明は、店主にとって都合が悪い。
「本人の意思」だけの問題じゃないなら、店主の責任も重くなる。
篠宮が小さく言った。
「俺、今、向こうの匂いがした」
店主が言う。
「匂い?」
篠宮は頷く。
「鉄と塩。作業場の匂い」
神崎が言った。
「それが重要です。音だけではなく、感覚のセットで反応している。
つまり、帰還条件は“音+何か”の可能性がある」
老人が言った。
「“何か”って言うな。具体に落とせ」
神崎は頷いた。
「候補は三つ。
- 特定の物(耳飾りのようなもの)
- 特定の状況(時間帯、場所、姿勢、距離)
- 特定の感覚(匂い、温度、光)
今日はここまで。これ以上は危険」
店主が言った。
「今日はここまで、じゃない。今後も危険だ」
神崎が言う。
「危険をゼロにはできない。危険を下げるしかない」
第2部 第12章 来訪者
夕方。
店の外が妙に静かだった。
店主はカーテンの隙間から外を見る。
通行人が少ない時間帯。なのに、気配がある。
店主が言った。
「来た」
神崎が立ち上がった。
「誰」
店主が言った。
「分からん。だが“見に来た”歩き方だ。一般人じゃない」
老人が言った。
「警察じゃないなら、もっと嫌だな」
篠宮は奥に下がった。
体調が戻っていない。足がふらつく。
ノックが来た。
昼とは違う。強い。迷いがない。
神崎が小声で言う。
「店主、出ない」
店主が言った。
「出ないと、ドアを叩き続ける」
神崎が言う。
「なら、こちらからコントロールする。私が出る」
店主が止める。
「お前が出るな。余計にバレる」
神崎は言った。
「私が出ないと、あなたが出る。あなたは感情で喋る。相手はそれを待ってる」
店主は黙った。
当たっている。
神崎がドアの前に立ち、少しだけ開けた。チェーンはかけたまま。
外にいたのは男二人。スーツ。髪型も整っている。
警察の格好ではない。
名刺を出す動きが早い。
男が言った。
「近隣トラブルの確認で。失踪の件で、聞き取りをしています」
神崎が言う。
「店主は不在です。警察なら、身分を」
男は笑わずに言った。
「警察ではありません。協力をお願いしている立場です」
神崎が言う。
「お願いするなら、まず名乗ってください」
男は名刺をチェーンの隙間に差し込む。
神崎は受け取らず、視線だけで読んだ。
会社名。部門名。名前。
民間の調査会社に見える。
だが、こういう名刺は信用できない。
神崎が言った。
「要件は」
男が言う。
「この店に、外国人女性が出入りしていたと聞きました。最後に見たのはいつですか」
店主が後ろで小さく舌打ちした。
もうそこまで来ている。
神崎は即答する。
「知りません。出入りがあるなら、警察に聞いてください。店は休業中です」
男は言った。
「店内を確認させてもらえますか」
神崎は言う。
「拒否します。令状がない」
男は落ち着いた声で言った。
「令状は必要ありません。任意です。協力しないと、周りの目が厳しくなりますよ」
店主が前に出ようとした。
神崎が手で止める。
神崎は男に言った。
「脅しですね。会話を録音します」
男は一瞬だけ目が動いた。
「録音は困ります」
神崎が言った。
「困るなら、帰ってください。二度と来ないで」
男の横の男が言った。
「こちらも仕事でして。お互い、面倒は避けたい。店主さんと直接話したいだけです」
神崎が言う。
「店主は不在です」
男が言った。
「では、あなたは誰ですか」
神崎は言った。
「関係者です」
男が少し声を落とした。
「関係者なら分かるはずだ。この件は“火”が付く。火が付いたら、あなたも守れない」
神崎は静かに言った。
「守れないのは、あなたの方です」
男は笑わない。
代わりに、名刺をもう一枚差し込んだ。別の名前。別の連絡先。
「今夜、もう一度来ます。店主が居る時間に」
神崎が言った。
「来たら通報します」
男は言った。
「通報は自由です。ですが、動くのは警察だけじゃない」
男たちは去った。
足音が遠ざかる。
店内に沈黙が落ちた。
店主が言った。
「これで“見つかった”」
神崎が頷いた。
「見つかった。想定より早い」
老人が言った。
「どうする。逃げるか」
神崎が言った。
「逃げない。逃げたら追われる。次の手を打つ」
店主が言う。
「次の手って何だよ」
神崎は短く答えた。
「篠宮さんを、ここから別の場所へ移す。今日中に」
篠宮が青い顔で言った。
「外に出たら、俺は捕まる」
神崎は言った。
「捕まるより先に、壊れる。あなたは今の反応だと、外でオルゴールの音に似たものを聞いたら動く。事故になる」
店主が言った。
「別の場所ってどこだ」
神崎は答えた。
「安全な部屋。監視カメラがある。出入口が一つ。近所に騒音がない。
そして、私の協力者が管理している」
店主が言った。
「協力者って誰だ」
神崎は答えない。
代わりに言った。
「今それを言うと、あなたは怒って拒否する。拒否したら、篠宮さんが危ない」
店主は握り拳を作った。
言い返す言葉はある。だが今は耐えた。
老人が言った。
「店主、怒っても現実は変わらん。動け」
店主は深く息を吐いた。
「……分かった。運ぶ準備をする。だが条件がある」
神崎が言う。
「言って」
店主が言った。
「オルゴールは動かさない。持ち出さない。あれは店に置く。
それと、篠宮を運ぶのに大地を巻き込むな」
神崎が頷いた。
「了解。オルゴールは置く。大地さんは巻き込まない」
店主が言った。
「約束だぞ」
神崎は答えた。
「約束します」
その時、店の奥でスマホが震えた。
店主のではない。
神崎のでもない。
篠宮の、昨日拾った安い端末だ。
画面には、知らない番号。
そして短いメッセージ。
「音を探してるのは君だけじゃない」
篠宮の手が震えた。
第2部 第13章 移送の段取り
店主はすぐに動いた。
まず、店の電気を落とす。外から「人がいる」と分かる要素を消す。
次に、裏口の鍵を確認。合鍵は使わない。自分の鍵だけ。
神崎はスマホを出して、短く言った。
「車、手配します。到着まで十五分」
店主が言う。
「十五分で来る車って、普通じゃないな」
神崎は言い返さない。
老人は店の奥から、紙袋を二つ出してきた。
中身は水、塩タブレット、使い捨てカイロ、薄い毛布。全部、古いが実用的。
店主が言った。
「いつからそんな準備してた」
老人は言った。
「お前が何かを隠してるのは昔からだ。俺は俺で備える。文句あるか」
店主は黙った。文句を言う余裕はない。
篠宮は奥の椅子に座っている。
顔色は戻っていない。さっきの音の反応がまだ残っている。
神崎が言った。
「篠宮さん、立てますか」
篠宮は一度、頷きかけてやめた。
「立てる。でも外に出た瞬間、何か聞こえたら…」
店主が言う。
「聞こえたら、止まれ。走るな。勝手に曲がるな」
篠宮は弱く笑った。
「俺、犬かよ」
店主が言った。
「犬の方が賢いことある」
老人が鼻で笑った。
神崎は段取りを続ける。
「移送は裏口から。表通りには出ない。裏路地を通って、車の後部座席に乗る。
店主はドアだけ開けて、篠宮さんの背中を押さない。押すと反射で動くことがある」
店主が言った。
「押さない。支えるだけだ」
神崎が言う。
「支えるなら、腕をつかまない。肩に手を置く程度。嫌がったら離す。
それと、目線は地面。看板やネオンを見ない」
篠宮が言った。
「視覚も関係あるのか」
神崎が言う。
「可能性がある。音だけじゃない。あなたが“戻る側の感覚”を拾うと、体が先に動く」
店主が言った。
「だから、俺はオルゴールを外に出さない」
神崎が頷いた。
「その判断は正しい。今日は置く」
老人が言った。
「置くのはいい。だが置いたままだと、外の奴らが嗅ぎつけたら終わりだぞ」
店主が言った。
「分かってる。だから今日は“消す”」
神崎が目を細めた。
「消す?」
店主はカウンター下の棚を開け、箱を出した。
防湿ケースのような硬い箱。中に、金属の袋が入っている。
店主が言った。
「これに入れる。電波とかじゃなくて、ただの遮音と遮光だ。
音が鳴らないように、ゼンマイを固定して、布で巻く」
老人が言った。
「そんなので意味あるのか」
店主は言った。
「意味があるかどうかじゃない。今できる対策はこれだけだ」
神崎が短く言った。
「やってください」
店主はオルゴールに触れない。
昨日の再現はしない。
店主は布を先に机に広げ、老人に言った。
「お前が持て。俺は固定する」
老人が嫌そうな顔をした。
「俺かよ」
店主が言った。
「お前が一番手が震えてない」
老人は舌打ちしながら、布ごと持ち上げた。
布越しに、オルゴールの形が分かる。
店主はゼンマイ部分を固定具で止め、さらに布で巻いた。
箱に入れ、金属袋に入れ、ケースを閉じる。
神崎が言った。
「これで今日の危険は下がる」
店主が言った。
「“ゼロ”じゃないんだろ」
神崎は言った。
「ゼロにはならない。下げるだけ」
そのとき、外で車のブレーキ音がした。
裏路地の短い停車。エンジンは切れていない。
神崎が言った。
「来た。行きます」
第2部 第14章 裏口、三分
裏口の前。
店主は鍵に手をかけたまま、篠宮を見る。
「今から三分で終わらせる。迷うな」
篠宮は頷いた。
神崎が言った。
「息は浅くしない。数える。1、2、3、4。吸って、吐く」
篠宮は言った。
「数えると余計に怖い」
店主が言った。
「怖いなら黙って歩け」
篠宮が小さく笑った。
「口悪いな、店主」
店主が言った。
「優しくしたらお前は泣く。泣いたら転ぶ」
老人が言った。
「泣くなよ。泣くなら車で泣け」
篠宮は「誰が泣くか」と言いかけて、飲み込んだ。
言い返す余裕がない。
店主が鍵を回す。
裏口を少しだけ開け、外を確認。誰もいない。
神崎が先に出る。
見張り役。左右を確認する。
神崎が合図する。
「OK。篠宮さん、今」
篠宮は立ち上がり、足を出した。
一歩目は安定。二歩目で、肩が震えた。
店主が低い声で言った。
「止まるな。歩け」
篠宮は歩く。
目線は地面。呼吸は浅いが止めない。
裏路地を曲がると、黒いワンボックスが停まっていた。
運転席に男。年齢は三十代後半くらい。顔は無表情。
助手席は空。後部座席も空に見える。
神崎が運転席の男に短く言った。
「今、乗せます。後ろ開けて」
男は無言で後部ドアを開けた。
篠宮が乗ろうとした瞬間、遠くで自転車のベルが鳴った。
篠宮の首が反射で上がる。
店主が即座に言った。
「見るな。座れ」
篠宮は歯を食いしばって、座席に体を落とした。
神崎がすぐにドアを閉める。
店主が言った。
「行け」
運転席の男はすぐ発進した。
タイヤの音が静かに遠ざかる。
店主はその場で一歩も動かず、周囲を見た。
神崎も見る。追跡の気配はない。
神崎が言った。
「今のベル、危なかった。音に反応する種類が増えてる」
店主が言う。
「増えてるのか、元から全部反応してたのか、どっちだ」
神崎は言った。
「元からの可能性もある。でも今日の反応は昨日より鋭い」
店主が吐き捨てるように言った。
「つまり悪化」
神崎は頷く。
「はい。早く帰還させる必要がある」
店主は言った。
「“早く”って言うな。失敗したら消える」
神崎は言った。
「消えたのはマチルダだけではない。過去にも似た事例がある」
店主が神崎をにらんだ。
「過去?」
神崎は一瞬黙って、言った。
「話す順番があります。今は、外の連中が来る。対応が先」
店主は歯を噛んだ。
「今夜、来るって言ってたな」
神崎が言う。
「来ます。だからこちらも準備します」
第2部 第15章 大地に来る手
その頃、大地は自宅で机に向かっていた。
メモの続きを書いていた。
「分からない」はそのままに、覚えている会話だけを整理している。
そこへインターホンが鳴った。
大地は一度、固まった。
予定はない。宅配も頼んでいない。
もう一度鳴る。
短い。せかしてる。
大地は覗き穴を見る。
男が二人。スーツ。昨日の夜の記憶はないが、嫌な一致がある。
大地はチェーンをかけたままドアを少し開けた。
「どちらさまですか」
男が言った。
「近隣で起きている失踪の件で、聞き取りをしています。少しだけお時間を」
大地が言った。
「警察ですか」
男は言った。
「警察ではありません。協力をお願いしている立場です」
大地は、昨日の店主の言葉を思い出した。
「警察だけじゃない」。
神崎の言い方も思い出す。「相手はそれを待ってる」。
大地は無理に丁寧にした。
「すみません。話せることはありません。警察へ」
男は一歩も動かない。
「あなた、キマイラ堂に出入りしていますよね」
大地の胸が一瞬だけ跳ねた。
だが顔には出さない。
「してません」
男は言った。
「嘘はいい。私たちは、あなたのSNSも見ています。映像関係、撮影、編集。
あなたの仕事、あの店と相性がいい」
大地が言った。
「何の話ですか」
男は笑わずに言う。
「外国人女性。長髪。日本語が少し不自然。あなた、最近一緒にいた」
大地は答えない。
答えた瞬間に「はい」と同じになる。
男が続ける。
「彼女が消えた。あなたは最後に見た人の一人です」
大地が言った。
「消えたって、どういう意味ですか」
男は言う。
「行方不明。失踪。事件になる可能性があります。
あなたが協力しないと、あなたも疑われる」
大地はドアの隙間を少し狭くした。
「脅しですか」
男は即答する。
「現実です。あなたの立場を守れるのは、協力した人だけです」
大地は言った。
「帰ってください」
男が名刺を差し込む。
「連絡先です。今日中に電話ください。
もし電話がない場合、明日、あなたの職場に行きます」
大地は息を吐いた。
職場を出されたら終わる。
でも、それ以上に嫌なのは「勝手に店主に迷惑が行くこと」だ。
大地は名刺を受け取らずに言った。
「職場に来たら通報します」
男は言った。
「通報は自由。ですが、あなたは守られません」
男たちは去った。
大地はドアを閉め、鍵をかけ、背中をドアに当てた。
手が少し震えている。
大地はスマホを取り、店主へ電話したい衝動を抑えた。
店主は「電話だけ」と言った。時間は夕方。まだ早い。
代わりに神崎に連絡する。
番号は知らない。連絡手段は店しかない。
詰んでる。
大地は机に戻り、メモを開いた。
そして、今起きたことを事実だけで書く。
- 10:?? インターホン
- スーツ2人
- 失踪の聞き取り
- キマイラ堂、外国人女性の話
- 今日中に電話しろ、職場に行くと言われた
- 名刺を差し込まれた(受け取ってない)
書き終えた瞬間、スマホが鳴った。
非通知。
大地は出なかった。
二度鳴る。三度鳴る。
大地は「一回だけ」と決めて出た。
「はい」
男の声。さっきの男ではない。もう少し若い。
「大地さん。あなた、賢いですね。ドア開けないのも正しい」
大地が言った。
「誰ですか」
男が言った。
「あなたが連絡すべき相手です。
キマイラ堂の件、あなたが知ってる範囲で教えてください。
こちらは穏便に済ませたい」
大地は言った。
「知りません」
男は言った。
「知ってる。あなた、昨日、現場にいた。
それに、あなたは“音”の人だ。音に敏感。だから巻き込まれてる」
大地は背中が冷たくなった。
「音って何の話ですか」
男は言った。
「分からないふりはいい。
ただ、あなたが誰に電話するかは見てる。
店主? 神崎? それとも警察?
選び方で、あなたの安全が決まる」
大地は言った。
「脅しですか」
男は言った。
「助言です。じゃあまた」
通話は切れた。
大地はスマホを机に置いた。
「見てる」と言われたのが一番きつい。
本当に見られてるかは分からない。でも、可能性がある。
大地はカーテンを閉め、部屋の明かりを落とした。
そして夕方まで待つ。
勝手に動かない。約束した。
第2部 第16章 別室、監視カメラ、そして一音
黒いワンボックスは、都内の古い雑居ビルの裏に停まった。
目立たない出入口。看板なし。
監視カメラだけ新しい。
運転席の男が言った。
「着きました」
篠宮は後部座席で目を閉じていた。
揺れに耐えていたが、額に汗が浮いている。
男が後部ドアを開ける。
「ゆっくり降りて」
篠宮が降りようとした時、ビルの中から小さな電子音が鳴った。
ピッ。
入退室の認証音。
篠宮が止まる。
呼吸が一気に浅くなる。
運転席の男が言った。
「どうした」
篠宮が言った。
「今の音…」
男が言った。
「ただの電子音だ」
篠宮が言った。
「違う。似てる」
男は一瞬、黙った。
そして短く言った。
「中に入る。音は遮る」
篠宮は足を出した。
だが、体が少し前に引かれるように動く。本人の意思より早い。
男が言った。
「走るな。歩け」
篠宮は歯を食いしばって、歩く速度に落とした。
室内は狭い。
白い壁。机と椅子。ミネラルウォーター。簡易ベッド。
そして天井の隅に、監視カメラが二台。
篠宮が言った。
「監視されてるのか」
男が言った。
「安全のためだ。あなたが急に倒れたり、暴れたりした時、誰かが対応できるように」
篠宮が言った。
「対応って誰が」
男は答えない。
代わりに、スマホでどこかへ短くメッセージを送る。
「到着。反応あり。電子音に引かれた」
送信後、男は篠宮に言った。
「座って。水飲んで。ここでは“音”を作らない。
テレビもラジオも無し。換気扇も止める」
篠宮は椅子に座った。
手が震えている。
男が言った。
「あなたが落ち着くまで、私は外にいる。ドアは施錠するが、閉じ込める意図はない。
トイレは廊下の奥。行くときは声をかけろ」
篠宮が言った。
「俺が逃げたら?」
男が言った。
「逃げてもいい。ただし、今のあなたは外で事故を起こす。
誰かを巻き込む。それを止めるのが私の仕事」
篠宮は小さく笑った。
「仕事、って便利だな」
男が言った。
「あなたも整備士だった。仕事の意味は分かるはずだ」
男が出て行き、ドアが閉まる。
カチャ、と鍵の音。
篠宮は部屋を見回した。
静かすぎる。
静かすぎると、耳が勝手に「探す」。
そのとき、廊下の奥でまた認証音が鳴った。
ピッ。
篠宮の体が反射で立ち上がった。
目が開く。視線がドアへ向く。
篠宮が言った。
「くそ…」
自分で自分を抑えようとするが、足が一歩出る。
そして二歩目で、膝が崩れた。
床に手をつきながら、篠宮は必死に声を絞る。
「やめろ…音…」
監視カメラがその様子を捉える。
次の瞬間、壁の向こうから声が飛んだ。
インカム越し。少し割れている。
「篠宮さん、動くな。今すぐ止める」
廊下の認証音が止まる。
しばらくして、別の静けさが来る。
篠宮の震えは少しずつ収まった。
だが、本人は理解した。
ここには“音”がある。
オルゴールじゃない。
ただの電子音でも、体が反応する。
つまり、もう篠宮の帰還条件は、店の中だけの話じゃない。
床に座ったまま、篠宮は笑った。
笑いというより、息漏れに近い。
「俺、もう…まともじゃないな」
その言葉が言い終わる前に、スマホが震えた。
誰かからのメッセージ。
「次はオルゴールじゃない。君が鍵だ」
篠宮は画面を見て、手の震えがまた始まった。
第2部 第17章 店に来る「確認」
夕方。
キマイラ堂は店を閉めたまま、内部だけに灯りを落としていた。
外から見れば空き店舗に見える。
店主はカウンターの内側で、スマホを机に置いていた。
大地からの連絡を待っている。
約束の時間は守るタイプだと信じたいが、状況が状況だ。
老人は奥で紙をめくっている。何かの古いメモ。
神崎は入り口側の椅子。無言で耳を使っている。
店主が言った。
「篠宮は?」
神崎が答える。
「別室で落ち着いています。ただ、反応が広い。電子音でも引かれる」
店主は舌打ちした。
「街全体が地雷だな」
神崎は否定しない。
「街は音だらけです。完全にゼロにはできない。だから、選ぶしかない」
店主が言う。
「何を」
神崎が言った。
「帰すタイミング。帰す場所。帰す順番」
店主は眉を寄せた。
「順番?」
神崎が言う。
「マチルダの時、偶然そろった二つの要素が一気に揃った。
あれは“帰還条件が満たされた”というより、“満たされすぎた”状態です。
過剰だと、本人の準備がなくても引っ張られる」
老人が言った。
「引っ張られるって言い方が気に食わん」
神崎は淡々と言う。
「実際、本人の意思より先に身体が動く。
今日の篠宮さんもそうでした。音に反射する。
つまり、彼はもう“戻る側”に半分足を突っ込んでいる」
店主は言った。
「じゃあ早く戻せばいいんだろ」
神崎は言う。
「急ぐと失敗する。
成功させるには条件を“揃える”必要がある。
揃える前に、邪魔が入る可能性が高い」
その言葉の直後、店の外で足音が止まった。
二人分。重さの違う靴音。
老人が即座に顔を上げた。
「来たな」
神崎が言う。
「確認です。まだ入ってはこない」
店主は肩の力を入れた。
「誰だ」
神崎が小さく言う。
「あなたの店が“空”かどうかを見に来る人間。
中に入れたら負け。今日ここで勝つのは、“何も起きない”ことです」
店主が睨む。
「何も起きない、が勝ち?」
神崎は頷く。
「相手は反応を取りたい。あなたが怒る、動く、話す。
そのどれかが相手の情報になる」
外で小さくドアノブが回った。
鍵がかかっているから動かない。
次に、ノックが二回。短い。
店主は立ち上がりかける。
老人が手を伸ばして腕を押さえた。
「座れ。若造が言ってるのは正しい」
店主は歯を食いしばって座る。
ノックがもう二回。
そのあと、声がした。男の声。落ち着いている。
「すみません。近所の者です。
最近、外から音がしたので、心配で。中に人いますか」
店主の顔が歪む。
嘘の匂いがする。
「音がした」なんて言い方が、今の状況に刺さる。
神崎が口だけ動かして、音を出さずに言った。
「無視」
老人も頷く。
外の男は続けた。
「いないならいいんです。ただ、火の元だけ…」
そこまで言って止まった。
足音が離れた。だが、完全に消えない。
数メートルのところで待っている気配がある。
神崎が言った。
「まだいる。戻ってくる」
店主が言った。
「帰れよ」
神崎は言う。
「帰らない。今日はあなたの“反応”を取れなかったから、
別の手を使う」
老人が低い声で言った。
「大地のところだな」
店主は顔を上げた。
「大地?」
神崎が即答した。
「可能性が高い。あなたは大地さんと繋がっている。
大地さんを揺らせば、あなたが動く」
店主は一瞬でスマホを掴んだ。
神崎が言った。
「電話はまだ。待つ」
店主が言う。
「待ってたら職場行くって言われてるんだろ」
神崎が言った。
「だから、今は“準備してから”動く」
老人が言った。
「若造、準備って何だ」
神崎は答える。
「店内を完全に“普通”にする。
帰還物と関係があるものを封じる。
そして、店主の動線を一つに絞る。相手に読ませない」
店主が言った。
「俺の動線?」
神崎が言う。
「あなたは感情で動く。あなたが一番の穴です」
店主は黙った。否定できない。
その時、スマホが震えた。
大地からの着信。
第2部 第18章 電話一本の重み
店主はすぐ出た。
「大地」
大地の声は、普段より硬い。
『さっき、スーツ二人来た。失踪の聞き取りだって。キマイラ堂のこと言われた』
店主は言った。
「何言われた」
『外国人の女。長髪。日本語が不自然。俺が一緒にいたって。
今日中に電話しろ、職場に行くって』
店主は息を吸った。
怒りが喉まで上がるが、飲む。
「名刺は受け取ったか」
『受け取ってない。差し込まれたけど、拾ってない』
店主が言った。
「正しい。触るな」
大地が言う。
『で、さっき非通知が来た。別の男。
“音の人だ”って言われた。
誰に電話するか見てるって。店主とか神崎とか警察とか』
店主の背中が冷たくなる。
大地は見られているかもしれない。
本当か嘘かの判断は、今は意味がない。
可能性だけで十分に危ない。
店主は言った。
「今から家出るな。カーテン閉めて、明かり落として。
玄関の前に物置くな。音立つから。
スマホはマナーモード。通知音切れ。
非通知は出るな。絶対に」
『分かった。けど、明日職場に来るって』
店主は言った。
「職場には行け。休むと余計に目立つ」
大地が沈黙した。
『怖いんだけど』
店主は一瞬、言葉を探す。
優しい言葉は薄っぺらくなる。
今必要なのは、具体。
店主が言った。
「怖いのは普通。
明日、通勤は変えろ。いつもと同じ駅、同じ改札、同じ時間は避ける。
でも遅刻はするな。
職場に着いたら、入口の防犯カメラが見える位置を選べ。
誰かが来たら、上司じゃなく総務か警備に直行して“訪問者がいる”って言え。
内容は言うな。言うほど面倒が広がる」
大地が言った。
『言うほど面倒が広がる、ってどういうこと』
店主は言う。
「相手は“言わせたい”。口に出した瞬間、現実になる。
お前が相手の土俵に乗る」
大地が、浅く笑った。
『何それ、スピ系?』
店主は即答する。
「違う。人間の話だ。
噂は口から増える。証拠は言葉で作られる。だから喋るな」
大地が言う。
『店主、そっちは大丈夫?』
店主は店内を見た。
神崎と老人が目で「余計なこと言うな」と言っている。
「大丈夫。今日は店は閉めてる。
それより、今夜は絶対に外出るな。
食料がなければコンビニはやめろ。デリバリーにしろ。
玄関で受け取る時もドア開けるな。置き配。金はオンライン」
『分かった』
店主は言った。
「もし、明日職場で何かあったら、俺じゃなく“110”だ。
俺に電話してる場合じゃない」
大地が息を吐く。
『…分かった。神崎って人、何者?』
店主は言った。
「説明できない。必要な時にだけ会わせる」
『いや、必要なの今だろ』
店主は言った。
「今じゃない。今説明したら、お前が混乱する」
大地は納得していない。
でも、今は従う。
『じゃあ、切る。連絡は?』
店主は言った。
「明日の昼。短く。
無事に出社して、無事に帰れたらそれでいい」
通話が切れた。
店主はスマホを置いた。
怒りは残っているが、形は見えた。
老人が言った。
「大地はまだ素直だな」
神崎が言った。
「素直だから狙われる」
店主が言った。
「俺のせいだ」
神崎が言う。
「あなたが原因とは限らない。でも、あなたが鍵の一つであるのは確か」
店主は黙った。
外で、また足音が近づいた。
今度は一人。ゆっくり。
神崎が言う。
「次は、別の入り方をする」
第2部 第19章 裏の裏
店の裏口。
鍵は二重にかけてある。
だが、金属が擦れる音がした。
鍵を壊そうとしてる音じゃない。
鍵穴に何かを入れている音。
老人が言った。
「プロだ」
店主の顔色が変わる。
怒りより先に、焦りが来る。
神崎が言った。
「動くな。止める方法は二つあります。
一つは警察。もう一つは、相手に“この店は価値がない”と思わせる」
店主が言った。
「価値がない?」
神崎が言う。
「中に誰もいない。何もない。帰還物もない。
そう見せる。相手が欲しいのは“反応”と“確信”。
確信できなければ、今日は引く」
老人が言った。
「だが鍵は開くぞ」
神崎が言った。
「開いた瞬間に、相手を“普通のトラブル”に落とします」
店主が言った。
「どうやって」
神崎は即答する。
「火災報知器ではなく、近所に響く物音でもなく、
“水”です。裏口の床を濡らす。滑る。転ぶ。
侵入者は転ぶと、侵入者じゃなく“事故”になる。
事故なら、警察を呼んでも不自然じゃない」
老人が眉をひそめた。
「それ、危なくないか」
神崎が言った。
「相手が怪我する程度なら、こちらの損害より小さい。
でも重傷は避ける。濡らすのは入口の一段だけ。
転ぶとしたら尻もち程度」
店主は迷った。
だが、鍵穴の音が続く。
もう猶予はない。
店主は厨房のシンクからバケツに水を汲み、裏口の内側の床へ薄く撒いた。
老人が雑巾で伸ばす。
神崎はスマホを握る。110の画面を開いたまま。
カチリ。
鍵が回る音。
ドアが少し開いた。
男が顔を出した。
見た目は作業員。帽子。手袋。工具。
だが目が落ち着きすぎている。
男が足を出した瞬間、滑った。
バランスを崩し、尻もちをつく。
「うわっ!」
その声は普通の声だった。
痛い。恥ずかしい。驚いた。全部が混ざった声。
神崎が即座に叫んだ。
「大丈夫ですか!?うち、閉めてたのに勝手に入らないでください!
怪我したなら救急呼びますよ!」
店主も合わせる。
「何してんだ!鍵壊そうとしただろ!」
老人が言う。
「通報するぞ!」
男は一瞬、目が冷たくなった。
だがすぐに作業員の顔に戻る。
「す、すみません。間違えました…ここ、空き店舗だと思って…」
神崎が畳みかける。
「空きでも勝手に入ったら犯罪です。警察呼びます」
男は立ち上がり、尻を払った。
痛みをごまかす仕草。
手袋の先がほんの少し濡れている。
男は低い声で言った。
「…分かりました。失礼しました」
そして引いた。
足音が遠ざかる。
店主は息を吐いた。
神崎はスマホを下ろした。
「今日は引きました。ただし、次は“事故”で引っかからない手を使う」
老人が言った。
「つまり、長期戦」
神崎が言う。
「はい。だから、今夜は次の準備をします。
篠宮さんを戻す計画を、現実的に組む」
店主が言った。
「今夜中に?」
神崎が頷く。
「今夜中に“設計”だけします。実行は焦らない。
ただし、設計が遅いほど相手が先に動く」
店主は言った。
「分かった。設計しよう」
第2部 第20章 帰還の設計図
神崎は机に紙を広げた。
線を引く。箇条書き。余計な言葉はない。
「篠宮さんを戻すには、条件を三つに分ける」
店主が言う。
「三つ」
神崎が言った。
「①トリガー(引き金)
②錨(いかり:ここに留める要素)
③出口(帰る先を確定させる要素)」
老人が言った。
「わけわからん」
神崎は淡々と説明する。
「トリガーは、帰還を始める刺激。
マチルダの場合、耳飾りとオルゴールが同時に揃った。
篠宮さんの場合、音に反応してる。つまりトリガーは“特定の周波数”かもしれない」
店主が言った。
「じゃあ音は危険だから全部消せ」
神崎が言った。
「消しきれない。だから逆に“選んで出す”。
余計な音がある街の中でやるのは無理。
やるなら、音が少ない場所。限定できる場所」
老人が言った。
「どこだよ」
神崎が言う。
「地下。防音された部屋。
ただし電子音もダメなら、機械が少ない場所。
候補は二つ。
一つは、古い倉庫。
もう一つは、あなたの店。夜。完全に閉じて、外の音を切った状態」
店主が言った。
「店でやるのか」
神崎は頷く。
「店は一番コントロールできる。
問題は外部の介入。今日のように侵入される。
だから、店でやるなら、外部からの侵入対策が必須」
老人が言った。
「それは俺がやる。鍵も、窓も、全部」
神崎は続ける。
「次に錨。
篠宮さんが“戻る”方向に引かれる時、今の世界に留める要素が必要です。
それがないと、本人の意思と関係なく吸い込まれて終わる」
店主が言った。
「錨って何だ。現実的に言え」
神崎が言った。
「匂い、触覚、温度、痛覚。
人間は“身体感覚”が強いと現在に戻る。
具体的には、冷たい金属を握る、手を温める、足裏に刺激、
そして“会話”。あなたの声も錨になる」
店主は眉を寄せた。
「俺の声が?」
神崎は頷く。
「あなたの声は篠宮さんの“今”に繋がっている可能性が高い。
理由はまだ言えません。でも、必要です」
老人が言った。
「最後、出口は?」
神崎が紙を指で叩く。
「出口は、帰る先を確定させる要素。
これが曖昧だと、篠宮さんは“どこにでも”引かれて消える。
帰る場所を固定するには、本人がいた場所の“手がかり”が必要です」
店主が言った。
「手がかりって、何を持ってるんだよ」
神崎が言った。
「篠宮さんの工具。制服。写真。
あるいは、向こうで使っていた“音”そのもの。
ただし、音は危険。だから模倣じゃなく、本人の記憶を引き出す形にする」
店主が言った。
「記憶を引き出す?」
神崎は言う。
「質問です。具体の質問。
整備士としての手順、匂い、油の種類、手の動き。
抽象はダメ。具体で固定する。
“戻る場所”を言葉で形にする」
老人が言った。
「お前、心理士かよ」
神崎は言った。
「現場です。現場は具体が勝つ」
店主は紙を見つめて、言った。
「いつやる」
神崎は言った。
「条件が揃うまで待つ。
ただし、相手が先に動く。
だから、明日から準備を始めます。
篠宮さんの“出口の手がかり”を集める。
大地さんの安全確保。
店の防衛。
そして、オルゴールを使うかどうかの判断」
店主は言った。
「オルゴールは使うな」
神崎は一拍置いて答えた。
「今の段階では同意します。
使うなら最後。出口を固定した後。
トリガーに使うと暴発する」
老人が言った。
「つまり、もう偶然は使えないってことだ」
神崎は頷く。
「偶然は一回しか通用しない」
店主はゆっくり息を吐いた。
「…分かった。明日からだ」
神崎が言った。
「明日からです。
そして、今日はもう一つ。
“過去の事例”を話します。短く」
店主が顔を上げた。
「今言うのか」
神崎は言った。
「あなたが今夜眠れないからです。
眠れないと、明日ミスする」
老人が鼻で笑った。
「優しいな、若造」
神崎は紙を裏返し、短く書いた。
「過去に、帰還条件が揃いすぎて暴発した人がいた。
その人は“出口”が固定されていなかった。
結果、戻ったのか消えたのか、誰にも確認できない。
そして、残ったのは“音”だけだった」
店主は背中が冷えた。
「残った音?」
神崎が言う。
「現場に、意味のない旋律が残り続けた。
誰にも聞こえないのに、特定の人だけが反応する。
それが今の篠宮さんに近い」
店主は拳を握った。
「じゃあ篠宮は…」
神崎が言った。
「まだ間に合います。
だから、具体で固める。偶然で賭けない。
明日から、勝ち筋を作る」
店主は頷いた。
怒りは消えない。
でも、怒りの行き先が「作業」に変わった。
外は静かだった。
今日は、何も起きなかった。
それが勝ちだった。
第2部 第21章 篠宮の「職業」
篠宮は別室の床に座っていた。
背中を壁につけて、両膝を抱えている。
店主が入ると、篠宮は目だけ動かして見た。
逃げる気配はない。
ただ、音に怯えている。
店主はできるだけ普通の声で言った。
「水、飲む?」
篠宮は小さく頷いた。
店主はペットボトルを差し出す。
篠宮は受け取って、キャップを開けるのに少し手間取った。
指が震えている。
店主が言う。
「手、冷えてるな」
篠宮が言った。
「…冷えてるっていうか、痺れてる」
店主は頷いた。ここは医者じゃない。
でも状況を聞くことはできる。
「職業、整備士って言ってたな。車?バイク?」
篠宮は一瞬、顔をしかめた。
「…本当は“整備士”って言いたくない」
店主が言う。
「じゃあ何だよ」
篠宮が言った。
「機械の点検。修理。人が入れない所の作業。
だから、油も、熱も、音も、全部当たり前の場所だった」
店主は言う。
「音が当たり前だったのに、今は音で倒れるんだな」
篠宮は苦笑した。
「皮肉だよな」
神崎が入ってきた。
紙とペンを持っている。顔がいつも通り無表情。
神崎が言った。
「篠宮さん。具体的に聞きます。
あなたの仕事の手順を、作業順で言ってください。
いきなり難しいなら、朝、現場に入って最初にやることから」
篠宮は目をそらした。
「…そんなの、言ってどうすんだよ」
神崎は言った。
「必要です。あなたが“元の場所”を思い出すために」
店主が言った。
「神崎、言い方」
神崎は一拍置いた。
「すみません。篠宮さん。
今のあなたは、思い出すと苦しいと思います。
でも、思い出さないと戻れません」
篠宮はしばらく黙った。
それから、ぽつぽつ言い始めた。
「朝は…工具の点検。
トルクレンチ、ソケット、スパナ、六角…
あと、手袋。絶対に新品。
古いのは油が残って、匂いで気持ち悪くなる」
店主が笑いそうになって、我慢した。
「潔癖か」
篠宮が言う。
「違う。油の匂いって…残るんだよ。服にも残る。
家帰っても残る。
それが普通のはずだったのに、今はそれがないのが気持ち悪い」
店主が言った。
「油の匂いがないと落ち着かない整備士、初めて聞いたわ」
篠宮は口元だけ動かした。
「俺も初めてだよ」
神崎がメモしながら言う。
「油の種類は?」
篠宮は即答した。
「グリス。潤滑油。切削油。あと…焼けた匂いのやつ。
焦げた配線の匂い。あれは一発で分かる」
店主が言った。
「焦げた匂いで分かるのは、料理の失敗だけだと思ってた」
篠宮が少しだけ笑った。
店主は内心でガッツポーズした。
笑うなら、少しは戻ってる。
神崎は続ける。
「制服。どんな色」
篠宮が言った。
「紺。胸に白い刺繍。名字じゃなくて番号」
店主が言った。
「番号?刑務所?」
篠宮が言った。
「現場はそういうノリだよ。
名前呼ぶより番号の方が早い。
“17、来い”みたいな」
店主が言う。
「お前、17なの?」
篠宮が頷いた。
神崎がメモした。
「17。重要」
店主が言った。
「重要って言うな。本人の前で言うと不安になるだろ」
神崎は淡々と言う。
「失礼しました。メモです」
老人がドアのところから覗いて言った。
「17ってなんだ。パチンコか?」
店主が言った。
「老人、今それ言うと世界が荒れる」
老人は「へいへい」と引っ込んだ。
第2部 第22章 大地の職場、普通じゃない訪問
翌日昼。
大地から短いメッセージが来た。
「出社できた。さっき受付に“男二人”来た。警備が止めた。今は帰った」
店主はすぐ電話したい衝動を抑え、返信を短くした。
「OK。昼休み中に1回だけ通話。5分」
大地から「了解」。
神崎が言った。
「電話の内容は、全部記録してください。時間、場所、言葉」
店主が言う。
「記録なんてできるか?大地は普通の会社員だぞ」
神崎は言った。
「だから、短く。
“誰が”“何を言った”“何を求めた”。それだけでいい」
店主はスマホを握ったまま、店内を見回した。
老人は窓の鍵を増やしている。ホームセンターの金具をガチャガチャやってる。
見た目は完全に不審者対策の老人だ。
店主が言った。
「老人、うるさい」
老人が言った。
「うるさい方がいい。静かな方が怖い」
店主が言う。
「それはわかるけど、近所が“あの店、何やってんだ”ってなるだろ」
老人が言った。
「元からなってる」
店主は何も言い返せなかった。
昼休み。
大地と通話。
『今、社内の会議室。窓ないところ』
店主が言う。
「男二人、どんな感じ」
『スーツ。名乗った。“調査”って言った。警察じゃない。
でも“公的”って雰囲気出してた』
店主が言った。
「名刺もらったか」
『警備が受け取ってた。俺は触ってない』
店主が言う。
「正解。で、何聞かれた」
『“キマイラ堂に行ったか”“外国人の女を見たか”“最近変な音を聞いたか”
あと、“君は協力者か”って』
店主は無言になった。
協力者。言い方が雑で、脅しに近い。
『それでさ、警備の人が強くて、
“用件は書面で出してください。社員に直接は無理です”って言ったら、帰った』
店主が言う。
「警備が優秀だな」
『うん。
でも帰り際に、俺の社員証の写真を見たっぽい。
一瞬、目が動いた』
店主は言った。
「大地、今日の帰りもルート変えろ。
寄り道なし。コンビニ寄るな。トイレは職場で済ませろ。
帰ったら連絡。短く」
大地が言った。
『店主さ、俺さ、巻き込まれてるよな』
店主は正直に言った。
「巻き込んだ。
でも、今の段階で一番安全なのは“普通に暮らすこと”だ。
怖いからって隠れると相手の思う壺」
大地が苦笑した。
『普通って、めちゃくちゃ難しいな』
店主が言った。
「お前ならできる。
というか、お前は普段から普通すぎる。だからいける」
『それ褒めてる?』
「褒めてる」
大地は少し笑った。
通話が切れた。
神崎が言った。
「今ので十分です。相手の目的は二つ。
店の存在を確定させること。
そして、大地さんを“接点”として固定すること」
店主が言った。
「固定って言うな」
神崎が言った。
「すみません。言い方を変えます。
大地さんを“逃げられない役”にしたい」
店主は机を叩いた。
「ふざけんな」
老人が言った。
「店主。怒るのは夜にしろ。今はやることだ」
第2部 第23章 防衛、現実的にやる
その夜。
老人は本気だった。
店の裏口には追加の補助錠。
窓には補助ロック。
ドアの隙間には簡易のアラーム(電池式で音が鳴るやつ)。
そして、店主の目の前に、なぜか小さな鈴が置かれた。
店主が言った。
「これ何」
老人が言った。
「鈴。ドア開けたら鳴る。機械より信用できる」
店主が言った。
「今、音に敏感な人がいるんだが?」
老人が言った。
「だから小さいやつだ。
“ガチャーン”じゃなくて“チン”だ。
猫の首輪より小さい」
神崎が言った。
「鈴は有効です。電気不要。故障しない」
店主が言った。
「神崎、老人に甘いな」
神崎は真顔で言う。
「合理的だからです」
店主はため息をついた。
防衛の仕上げに、老人が紙を一枚出した。
手書きのチェックリストだ。
- 表のシャッター:二重ロック
- 裏口:補助錠確認
- 窓:ロック確認
- 店内:帰還物を箱に入れ、施錠
- 篠宮:別室、耳栓は使わない(逆に危険)
- 店主:スマホ通知オフ
- 神崎:緊急連絡先一覧更新
店主が言った。
「最後の“店主:スマホ通知オフ”って、俺だけ悪者扱いか」
老人が言った。
「お前はすぐ鳴らす」
店主が言う。
「鳴らしてない」
老人が言った。
「心が鳴ってる」
店主は言い返すのをやめた。
老人の勝ちだ。
神崎が店主に言った。
「次に必要なのは“出口の手がかり”です。
篠宮さんの番号が17。制服が紺。現場は機械の点検。
この情報だけだと足りない」
店主が言う。
「何が必要だ」
神崎が言った。
「場所を特定する情報。
会社名、現場の呼び方、駅、使う言葉。
ただし、篠宮さんが怖がると話さなくなる。
あなたが聞き役になります」
店主は言った。
「俺が?」
神崎が頷く。
「あなたの話し方なら、篠宮さんは答えやすい」
店主が言う。
「俺の話し方って、雑だぞ」
神崎は即答した。
「雑だからいい。変に優しいと、相手は構えます」
店主は微妙な顔になった。
「褒めてるのか、それ」
神崎は真顔。
「実用です」
第2部 第24章 神崎の正体は、まだ全部言わない
深夜。
篠宮は少し落ち着いた。
店主はコーヒーを二つ用意して、篠宮の前に置いた。
篠宮が言った。
「眠れない」
店主が言う。
「俺も眠れない。
寝ると変な夢見るタイプだ」
篠宮が少し笑った。
「お前、いつもこんな感じなの?」
店主が言う。
「こんな感じ。
だから客が来ない。いや来るけど、癖が強い」
篠宮が言った。
「俺も癖が強い側に入ったな」
店主は頷く。
「入った。おめでとう。最悪だな」
篠宮が鼻で笑った。
店主は話を戻した。
「篠宮。17って、どこの17だ。
会社の中で17って呼ばれてたなら、同じ番号が他にもいる。
お前の現場、どんな場所だ」
篠宮はコーヒーを見つめた。
「…言ったら、戻れなくなる気がする」
店主が言う。
「言わないと戻れない。
ここに居続ける方が、もっと壊れる」
篠宮はしばらく黙ってから言った。
「港…だと思う。
潮の匂いがした。
鉄の匂いも、塩も、油も混ざってる。
あと、いつも遠くで低い音。船の音。
地面が少し揺れる感じがあった」
店主は頷いた。
これなら地理の方向性が出る。
「駅は?」
篠宮が言った。
「…覚えてない。
でも、駅に着くと、すぐエレベーター。
階段は使うなって言われてた。安全の理由で」
店主が言った。
「高い所か、危険区域か、荷物運ぶか。
現場の名前は?」
篠宮は顔をしかめた。
「言えない。言うと、戻る時に…“そこ”じゃない所に戻りそう」
店主は一拍置いて言った。
「じゃあ、現場の合言葉みたいなやつ。
朝礼で言う言葉とか、点検の決まり文句とか」
篠宮は小さく言った。
「“指差し呼称”」
店主が言う。
「それは全国の工場で言う」
篠宮が言った。
「じゃあ…“ロックアウト”」
神崎がいつの間にか後ろに立っていた。
小さな声で言う。
「電源遮断の手順。安全の用語です。工場系」
店主が言った。
「神崎、いつからそこにいる」
神崎は答える。
「さっきからです」
店主が言う。
「怖いんだよ、お前」
神崎は真顔。
「必要なら足音を立てます」
店主は手を振った。
「いや、いい」
篠宮が神崎を見て言った。
「お前、何者だよ。
さっきから、俺の話を“現場の言葉”で整理してる」
神崎は少し間を置いた。
「現場を見てきただけです。
あなたみたいな人を“戻す作業”をしたことがある」
篠宮が言った。
「どこで」
神崎は言った。
「今は言えません。
あなたが落ち着いて、戻る準備ができたら、必要な分だけ話します」
店主が言った。
「神崎、隠すの上手いけど、信用は減るぞ」
神崎は即答。
「信用を取るより、手順を守ります。
信用はあとで回復できます。失敗は回復できません」
篠宮は小さく笑った。
「お前、嫌われるタイプだな」
神崎は真顔で言う。
「よく言われます」
店主は思わず笑った。
「そこは認めるんだ」
神崎は言った。
「事実だからです」
篠宮は少し息を吐いた。
そして、店主を見て言った。
「…戻りたい。
でも、戻ったら“俺の席”があるのか分からない」
店主は即答した。
「それは戻ってから考えろ。
今は、戻るのが先。
席がなかったら、また別の席を探せ。
その時は、俺がコーヒーくらい奢る」
篠宮は、はっきり笑った。
「安いな」
店主も笑った。
「うちは薄利多売なんだよ」
第25章 書面は丁寧で、内容は乱暴
月曜の午前、会社の受付から内線が鳴った。
「尾田さん宛てに、書留が届いてます。受領サインお願いします」
書留。嫌な予感しかしない。封筒は厚くて、紙の角がしっかりしている。差出人は会社名でも法律事務所でもない。見慣れない財団名と、担当者らしきフルネーム。
デスクに戻って開けると、丁寧な文章が並んでいた。
- 「面談のお願い」
- 「非公開事項の共有」
- 「本人確認のための情報提供」
全部、お願いの形をしているのに、断った場合の記載だけがやけに具体的だった。
読み終えた瞬間、背中が汗ばむ。これ、交渉じゃない。通告だ。
昼休み、スマホを握ってキマイラ堂に電話する。
「店主。会社に“紙”が来た」
『紙?』
「書留。面談のお願いって顔して、拒否したらどうなるかが書いてあるタイプ」
『……来たか』
店主の声が一段低くなる。あの店で、コーヒーの味以外に重いものが増える瞬間の声だ。
「篠宮さんは?」
『今日も来てる。いつもの席。顔色は……普通だな。普通に“普通”を演じてる』
篠宮。異世界から来たのに、ここで生活するのが上手すぎる人。
上手すぎるせいで、誰にも気づかれない。気づかれないから、追われる。
「俺、今日は早退する」
『無理すんな。紙は写真送れ。こっちでも見て考える』
写真を撮って送る。すぐ既読がつく。
『これ、法務じゃない。脅しの体裁だけ整えてる。普通の会社が使うルートじゃない』
「じゃあ何なんだよ」
『“回収屋”だ』
回収屋。言葉だけで十分だ。
その日の夕方、俺は荒川沿いのキマイラ堂に入った。
カフェスペースは平日らしく静かで、篠宮はいつもの席にいた。ノートPCの画面を見ながら、指だけが淡々と動く。翻訳の仕事。ここまで日常に溶けるのは、才能だ。
篠宮が顔を上げる。
「……来たんですね。書面」
「会社に来た。お前にも来るか?」
「もう来てます。自宅のポストに。封筒、同じ硬さでした」
硬さが一致するの、嫌すぎる。
店主がカウンターから出てきて言った。
「今日、もう一人呼んでる。俺らだけだと、判断を間違える」
「誰?」
「吉岡さん。あの、毎日新聞だけ買って帰る老人」
新聞だけ買って帰るくせに、紙ものの扱いが妙に手慣れてる人。
あの人、ただの客じゃない。
第26章 吉岡さんは「面倒」を整理してくる
吉岡さんは、いつも通りの服で来た。地味で、清潔で、存在感だけ薄い。
席につくなり、俺のスマホを指さした。
「書面、見せて」
「はい……」
吉岡さんは写真を眺めて、最初にしたのは感想じゃない。分解だった。
「相手は、こちらの“反応”が欲しい。面談に来るか、来ないか。来ないなら次のカードを切る。来るなら密室に引き込む」
店主がうなずく。
「密室って……怖い言い方」
「怖いことを、怖くない言い方でやるのが上手い連中だよ」
篠宮が淡々と言う。
「私は逃げればいいんですか」
「逃げると追跡は楽になる。足跡が増える。相手は足跡が欲しい」
吉岡さんは、俺の方を見る。
「尾田くん、君の会社に来たのがポイントだ。つまり、君は“関係者”としてラベルを貼られた」
「貼られたくないんですけど」
「貼られた。剥がす方法は二つ。相手の興味を他へ移すか、こちらが“対象ではない”と証明するか」
店主が眉をしかめる。
「証明って、どうやって」
「“人違い”にする。つまり、手がかりを消す」
篠宮が小さく首を振った。
「私は消えられない。ここで仕事もある」
「仕事、守る必要ある?」
「必要です。仕事がないと、私は……手順が分からなくなる」
篠宮の言葉が現実的で、重い。
生活の手順が崩れると、人は簡単に壊れる。異世界かどうかは関係ない。
吉岡さんは続けた。
「いま必要なのは二つ。ひとつは、“帰す段取り”。もうひとつは、“会社への接触を止める段取り”」
俺が聞く。
「帰す段取りは、神崎だろ」
「そう。神崎は“戻し方だけ”知ってる。過去は知らなくていい。戻し方だけ聞け」
店主が頷き、短く言う。
「神崎、呼ぶ」
第27章 神崎は「説明」を短くしたがる
神崎は夜に来た。雨上がりで、靴だけ濡れてる。
いつも通り、顔が読めない。
店主が切り出す。
「回収屋が動いた。書面が会社に来た」
神崎は一瞬だけ眉を動かした。驚きじゃない。確認だ。
「……速いね」
俺が言う。
「戻し方だけ聞かせてくれ。長い話はいい」
「助かる。長い話、嫌いなんだ」
神崎はテーブルに小さな布を置いた。
布を開くと、金属の小箱。古いオルゴール。側面に小さな傷がある。
「これ、どこで」
「この間、店の裏の倉庫で見つかった。“預かり物”の中に混じってた」
店主が言う。
「お前、そんなの預かるなよ」
「預かったんじゃなくて、勝手に増えるんだよ。うちの店、そういうところある」
神崎はオルゴールに指を置く。
「帰還物は二つ。片方は“鍵”。もう片方は“扉の癖”を覚えてるもの」
篠宮が静かに耳元に触れた。左耳の耳飾り。小さくて、上品で、普段は何の変哲もない。
「これが鍵?」
神崎がうなずく。
「それが“鍵”。で、オルゴールが“扉の癖”を覚えてる。両方が同じ空間に揃うと、反応する」
俺が言う。
「じゃあ、揃えたら帰れるのか」
「基本はそう。でも条件がある。“本人が拒否しないこと”。拒否してると、反応が弱くなる。弱い反応は、途中で止まる。途中で止まると、いちばん危ない」
店主が聞く。
「危ないって、どっちに」
「こっちにも向こうにも中途半端になる。戻せないし、ここにも居られない」
篠宮が目を伏せる。
拒否してる自覚があるんだと思う。生活ができてしまったから。
俺は言った。
「篠宮。帰りたいのか」
篠宮は少しだけ迷って、答えた。
「……帰りたいです。帰るべきです。でも、怖い。帰ったあと、私は何をすればいいのか分からない」
神崎が淡々と返す。
「分からないまま帰ってもいい。ここに居続けて“分かるふり”を続けるのも、別の地獄だよ」
店内が静かになる。
神崎の言葉は冷たいんじゃない。余計な飾りがないだけだ。
吉岡さんが口を挟む。
「回収屋は、いつ来る」
神崎は答えた。
「次は“直接”だと思う。面談じゃなくて、接触。店か、職場か、自宅か。相手は“選択肢”を与えない」
俺が言う。
「じゃあ、こちらも選択肢を作らせない。揃えよう。今夜」
神崎が見る。
「今夜、いいの?」
篠宮が言った。
「今夜にしてください。明日にすると、私はたぶん逃げます」
第28章 偶然は、だいたい疲れてるときに来る
深夜。キマイラ堂は閉店して、照明を落としている。
篠宮はいつもの席に座り、神崎は向かい。店主と吉岡さんと俺が少し離れて立つ。
神崎が言った。
「手順は簡単。オルゴールを開ける。音が鳴る。耳飾りが反応する。反応が強まったら、触らない。邪魔をしない」
店主が言う。
「邪魔って、何だよ」
「声をかけるのも邪魔。泣くのも邪魔。説教も邪魔。特に、感動して抱きしめるのが最悪」
俺は心の中で誓う。抱きしめない。感動もしない。たぶん無理だけど。
神崎がオルゴールのネジに指をかける。
篠宮は左耳の耳飾りを外さず、触れるだけにした。
「最後に確認。拒否はしない?」
篠宮は小さくうなずく。
神崎がオルゴールを回した。
カチ、カチ、と古い機械の音。
蓋を開けると、少し音程が不安定な旋律が流れた。子どもの頃の記憶みたいな音だ。
篠宮の耳飾りが、ほんの一瞬、金属の光を変えた。
派手な光じゃない。湿った空気が一瞬だけ乾くみたいな変化。
篠宮が息を吸う。
その瞬間、外で、店のドアが叩かれた。
ドン、ドン、と遠慮のない音。
誰かが名乗る気配もない。
店主が反射で動こうとした。吉岡さんが腕を掴む。
「行くな。いまは“邪魔”だ」
「でも——」
「行ったら負ける。ここが“場”だ。場を割らせたら、終わる」
ドアがもう一度叩かれる。
俺の胃が痛い。
でも、目の前で篠宮の耳飾りが、確かに熱を持ったように見える。
篠宮が言った。声は小さい。
「……音、懐かしい」
神崎が口を開きかけたが、黙った。
たぶん、余計な言葉が出そうになった。
旋律が二周目に入ったところで、篠宮の足元の影が一瞬だけ薄くなる。
俺は目を疑った。
でも、疑ってる暇がない。
ドアの外から声がする。男の声。丁寧な口調。
「篠宮さん。こちら、確認を。お話だけでも——」
名指し。来た。回収屋。
次の瞬間、店の空気が変わった。
篠宮が「あ」とだけ言って、椅子の背もたれに軽く手を置く。
そして——
消えた。
本当に、一瞬。
煙も光もない。大きな音もない。椅子だけが軽く揺れて、元に戻る。
オルゴールの音も、途中で止まった。
機械が息を止めたみたいに、静寂が落ちた。
俺の喉が乾く。
「……帰った」
店主が言った。声が震えてるのを、隠しきれてない。
「帰ったな」
その直後、外の男が言う。
「……失礼しました。手違いでした」
足音が遠ざかる。
あっけない。追ってたくせに、引くのも早い。
吉岡さんが小さく吐息を漏らす。
「上から止められた。あるいは、対象が消えたから手がなくなった」
神崎がオルゴールを閉じた。
何事もなかったように布を畳む。
「戻った。これで、終わりにできる」
俺は、椅子を見た。
篠宮が座っていた場所。コーヒーの輪染みが残ってる。生活の痕跡だけ、ここに置いていった。
第29章 会社は何も知らない顔で終わる
翌朝、俺は普通に出社した。普通の顔で。
普通のふりが、いちばん疲れる。
昼前、例の財団から電話が来た。
「尾田様でしょうか。昨日お送りした件で——」
「昨日の件、取り下げですよね?」
相手が一瞬黙る。
「……確認いたします」
「確認お願いします。録音してます」
嘘だ。録音してない。でも、嘘でも効く嘘はある。
数分後、メールが来た。件名は短い。
「ご連絡の件/終了」
本文は、さらに短かった。
- 「当該のご連絡は不要となりました」
- 「ご迷惑をおかけしました」
- 「本件に関するお問い合わせはご遠慮ください」
来たときは丁寧で乱暴だったのに、引くときは露骨に冷たい。
俺はスマホを握って、キマイラ堂に行った。
店主はカウンターで、豆を挽いていた。いつも通りの動作。いつも通りの音。
「会社、終わった」
「そりゃ良かった……って言っていいのか分かんねえな」
俺は椅子の方を見る。篠宮の席が空いてる。
空席って、こんなに存在感があるんだなと思った。
吉岡さんが来て、短く言った。
「これで君らは“関係者”から“事故に巻き込まれた人”に格下げされた。完全に安全とは言わないが、優先度は落ちた」
俺が言う。
「格下げって言い方」
「現実は、そういうふうに動く」
神崎は最後に、店主だけに言った。
「帰還物は、また増える。ここは“溜まる場所”だから」
店主が眉をひそめる。
「……やめろよ、そういう体質」
「やめられるなら、とっくにやめてる」
神崎は帰っていった。
吉岡さんも「新聞買い忘れた」と言って帰った。たぶん買う気ない。
店主と俺だけが残る。
俺は言った。
「篠宮、結局、何者だったんだろうな」
店主はコーヒーを淹れながら言う。
「知らなくていい。知ったら、次に会ったときに変な顔する。変な顔は、相手に失礼だ」
「……お前、たまにまともなこと言うよな」
「たまにしか言わない。毎回言うとキャラが壊れる」
その日の夜、店を閉める前に、俺は気づいた。
篠宮の席の下に、小さな紙片が落ちている。
拾うと、手書きのメモ。
「ありがとう。音が、道でした。」
短い。
でも、俺には十分だった。
エピローグ キマイラ堂は、また普通に忙しい
数日後。キマイラ堂はまた、普通に客で埋まった。
篠宮の席には誰も座らない。自然に空く。誰も理由を聞かない。
店主は、いつも通りぶっきらぼうで、いつも通りサービスが雑で、いつも通り味だけはいい。
俺も、いつも通り会社に行って、いつも通り疲れて帰る。
ただ一つ違うのは、書留が届いても、前ほど心が折れないことだ。
帰り道、店主からメッセージが来た。
「倉庫でまた変なの出た」
写真が添付されていた。
古い真鍮のコンパス。針がくるくる回って、止まらない。
俺はため息をついて、返信した。
「捨てんなよ。どうせ捨てられないだろ」
すぐ既読がつく。
「だよな」
キマイラ堂は、今日も普通に開く。
普通のふりをしたまま、変なものを抱えて。
そして俺は、また関わる。
たぶん、嫌々。だけど、見捨てはしない。