
第一話 居るもんだね
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「PROLOGUE」
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午前六時十五分。アラームが鳴る。目覚ましは『エリーゼのために』。起きやすい。
男は目を開けた。天井が見える。白い天井。ひび一つない。平らで、清潔で、退屈な天井。最高の天井だ。
向こうの世界では、朝、目を開けると石の天井が見えた。苔が生えていた。虫が這っていた。時々、天井から何かが落ちてきた。何かは、だいたい毒があった。
ここでは、何も落ちてこない。天井は天井のまま、一日中そこにある。信頼できる天井。男はこの天井が好きだ。
布団から出る。しまむらのスウェット。千四百九十円。向こうの世界では、冬を越すために獣の毛皮を剥いで、なめして、縫って、三日かかった。ここでは千四百九十円で冬が越せる。しかもサイズが選べる。色も選べる。洗濯機で洗える。乾燥機で乾く。文明だ。
洗面台に立つ。鏡を見る。
耳を確認する。右耳。左耳。髪でちゃんと隠れている。大丈夫。今日も大丈夫。
鏡の中の自分に向かって、笑顔を作る。口角を上げる。歯は見せすぎない。怖いから。マニュアルのver.14に書いてある。「笑顔は口角を上げる(でも歯は見せすぎない、怖いから)」。十四回目の改訂で、ようやくこの笑顔に辿り着いた。
向こうの世界では、笑顔を作る必要がなかった。罪人に笑顔は求められない。ここでは笑顔が必要だ。笑顔がないと、コンビニの店員が心配する。「大丈夫ですか?」と聞かれる。大丈夫だ。大丈夫すぎる。この世界は大丈夫しかない。
歯を磨く。歯磨き粉はクリアクリーン。百九十八円。ミントの味がする。向こうの世界では、歯を磨くという概念がなかった。歯が痛くなったら、薬草を噛んだ。薬草が手に入らなければ、痛いまま過ごした。歯が抜けたら、それまでだった。
ここでは、歯医者がある。保険が適用される。三割負担。予約制。予約を取るのに電話をする。電話の仕方はマニュアルのver.7に書いてある。「歯医者への電話:名前、症状、希望日を伝える。電話の最後に『よろしくお願いします』と言う」。簡単だ。こんな簡単なことで歯が治る。
朝食を作る。食パン。マーガリン。目玉焼き。牛乳。
トースターに食パンを入れる。レバーを下げる。待つ。二分。何も起きない。何も襲ってこない。何も爆発しない。ただ、パンが焼ける。この「何も起きない二分間」が、男にとっては奇跡だ。
向こうの世界では、食事の前に周囲を警戒した。毒を盛られていないか確認した。食材が腐っていないか匂いを嗅いだ。ここでは、賞味期限が印刷してある。親切だ。いつまで食べられるか、パッケージが教えてくれる。パッケージに書いてあることは、だいたい正しい。この世界では。
食器を洗う。スポンジと洗剤。泡が立つ。泡が汚れを落とす。科学だ。魔法じゃない。再現性がある。誰がやっても同じ結果が出る。これが科学の素晴らしいところだ。魔法は才能がないと使えない。科学は、スポンジを持てれば誰でも使える。
服を着替える。スーツ。ポリエステル製。安い。でも清潔だ。ネクタイを結ぶ。結び方はマニュアルのver.5に書いてある。
五回目の改訂で、ようやくプレーンノットが結べるようになった。最初の四回は毎朝三十分かかっていた。今は二分で結べる。成長だ。
鏡の前で全身を確認する。耳は隠れている。爪は短く切ってある。爪が硬いのは仕方がない。体質だ。向こうの世界での体質が、こちらでも少しだけ残っている。人間の爪切りでは切れないので、ペンチを使っている。ペンチはホームセンターで買った。三百八十円。道具が安い。そうだ、この世界は道具が安い。
アパートを出る。
階段を降りる。郵便受けを確認する。チラシが二枚。ピザのクーポンと、不動産の広告。どちらも読む必要がない。
でも読む。この世界の言葉で書いてあるものは、全部読む。読めば読むほど、この世界の住民に近づける気がする。
駅まで歩く。七分。毎日同じ道を歩く。同じ順序で同じ角を曲がる。マニュアルのver.8「通勤ルート」に従っている。一度だけ違う道を試したことがある。迷った。迷って遅刻した。上司に「大丈夫?」と聞かれた。大丈夫だった。
でも迷うのは怖い。だから同じ道を歩く。同じ道は安全だ。同じ道は裏切らない。
途中、コンビニに寄る。セブンイレブン。二十四時間営業。
この概念を初めて理解したとき、男は三十分ほど動けなかった。二十四時間。一日中。いつ行っても開いている。真夜中でも。早朝でも。雨の日でも。魔獣が出る日でも。
——この世界に魔獣はいないが、もしいたとしても、コンビニは開いているだろう。そういう信頼感がある。
リポビタンDを手に取る。百五十円。レジに持っていく。
「おはようございます!いらっしゃいませ」
店員が言う。毎朝言ってくれる。名前も知らない客に、毎朝。
「おはようございます!いらっしゃいませ」
男も返す。
マニュアルのver.2に書いてある。「店員が挨拶したら、同じ言葉を返す」。簡単なルールだ。
でも、最初はできなかった。声が出なかった。向こうの世界では、罪人が店に入ることは許されなかった。許されたとしても、店員が挨拶してくれることはなかった。
ポイントカードを出す。一ポイント。小さな幸福だ。
命を懸けずに安価に体力が回復する飲み物を買える。
こんな世界が、他にあるだろうか。
ない。少なくとも、男が知る限り。

* * *
朝の千代田線。綾瀬発、大手町方面。午前七時四十二分。
男がスマホのメモを確認していた。
「今日の目標:昼休みに同僚と雑談する(話題:天気、昨日のテレビ、季節の食べ物のどれか)」
「注意:相手の目を見すぎない(二秒で視線を外す)」
「相づちは三回に一回(多すぎると不自然、少なすぎると失礼)」
「笑顔は口角を上げる(でも歯は見せすぎない、怖いから)」
右隣のOLもスマホを見ていた。左隣の学生もスマホを見ていた。向かいのサラリーマンもスマホを見ていた。
全員、何かを確認している。何かに備えている。
何かのマニュアルを、心の中で読んでいる。
誰もが、何かのマニュアルで生きている。
だから、この男が少しだけ違っていても、誰も気づかない。
髪で隠した耳が、少しだけ尖っていることに。
ドアが開く。北千住。男は降りる。改札を抜ける。地上に出る。深呼吸をする。
空が一つしかない。太陽が一つしかない。月は夜にならないと見えない。
それが当たり前の世界。この、素晴らしい世界。
男はコンビニで買ったリポビタンDを飲んだ。小さな幸福だ。この世界に感謝する。
男は区役所に向かった。
今日こそ、転入届を出す。今日こそ、この世界の住民になる。大仕事が始まる。
* * *
壁に当たる音がした。
窓のない、小さな部屋。差し込む光もないので何をしているか分からない。星の光の偉大さを実感できるほど、何も見えない。
ただ、壁に当たる音だけが、繰り返されていた。
* * *
区役所の発券機は嘘をつけない。
ピッ、ピッ、ピッ。音は正直だ。音の数だけ人がいる。人がいる分だけ仕事がある。仕事がある分だけ給料が出る。給料が出る分だけ税金が取られる。世の中は、バランスしている。
木本透子は端末画面を見た。来庁者数、前日比マイナス2パーセント。美しいほどに、横ばい。今日は何もない日のはずだ。なのに、人が多い。体感で多い。数字が少ない。
つまり、何か増えている。
数字に出ない人が増えるとき、木本の頭の奥が微かに痛む。片頭痛とは違う。
もっと深いところ——脳の、使っていない場所が反応するような感覚。
この感覚が何なのか、木本は知らない。
ただ、この感覚が鳴るとき、窓口には必ず「おかしな客」が来る。
木本は立ち上がり、窓口に向かった。歩幅が一定だ。急いでいるようには見えない。でも、誰よりも早く着く。これが経験だ。これが公務員の本気だ。年間三百六十五日、一ミリも揺れない歩幅。国家が誇る直進性。
木本の名刺には二つの肩書きがある。「住民課窓口係」と「地域振興課・特別相談係(兼務)」。後者は三年前に自分で提案した。住民の困りごとが窓口だけで完結しないケースが増えたため、外出調査を含む相談対応枠を作った。
上司は「好きにしたらいいよ」と言った。
好きにした。おかげで木本は、必要とあれば午後イチで現場に出られる。
公務員として正式に。予算はゼロだが、権限はある。
スーツの男が机を指で叩いていた。トントントン。忙しいアピールの叩き方だ。でもスマホは見ている。そんなに急いでないアピールでもある。人間は矛盾した生き物だ。
爪が机に当たる音が、妙に硬い。カツン、カツン。木の机に、金属の爪。金属? いや、爪じゃない。何か、硬いもの。何かが、おかしい。
「お待たせしました」
木本が書類を受け取る。転入届だ。住所欄を見た。目が止まる。
転入前の住所らしきものが書いてある。番地らしきものもある。でも、地名が微妙におかしい。区の名前は合っている。町名が一文字違う。いや、二文字違う。いや、そもそもこの町名、存在するのか?
転入先の住所は正確だった。北千住のアパート。実在する。家賃も払っているのだろう。でも「どこから来たのか」が書けなければ、転入届は受理できない。来る前の住所がない人間は、行政上、どこからも来ていないことになる。どこからも来ていない人間が、どこかに住むことはできない。
これがルールだ。
「ここ、転入前のご住所ですが——どちらからいらしたんですか」
男が答える。声が平坦だ。抑揚がない。まるで、覚えてきたセリフを読んでいるみたいだ。いや、読んでいるのかもしれない。心の中で。
「記入した通りの住所です。ご確認をお願いいたします」
丁寧だ。丁寧すぎる。
公務員の木本が言うのもなんだが、丁寧すぎる。
この丁寧さは訓練の匂いがする。何かのマニュアルで身につけた丁寧さだ。
それと——顔が、白い。
公務員として言うのもなんだが、白い。窓口に来る人間の肌の色を気にすることは木本の仕事ではない。でも、白い。蛍光灯の下でも影が落ちないような白さだ。そして、整いすぎている。
この人物の周囲だけ、照明の質が違う気がする。
気のせいかもしれない。
「地図にありません」
「そちらの地図に記載がないだけで、住所としては存在します」
男の論理は正しい。地図にないからといって、存在しないわけではない。でも、地図にない住所は行政上存在しないことになっている。
それが、ルールだ。
ルールというのは大変便利な概念で、あらゆる不条理に「でもルールですから」と言えば終わらせることができる。木本はこの概念を愛している。
木本は端末に住所を打ち込む。検索結果、該当なし。もう一度打つ。やはり該当なし。番地を一つずらす。該当なし。全部ずらす。全部該当なし。完璧に、存在しない。
照合画面が赤くなる。警告音が小さく鳴る。ピーッ。電子音が、男の嘘を告発する。デジタルの正義だ。機械に嘘は通じない。人間には通じることもあるが、機械には通じない。これが、木本が機械を信頼する理由だ。
男の指が、机を叩くのを止める。
「……やはり、無理でしょうか」
声が小さくなる。諦めた声だ。でも、どこか安堵している声でもある。
諦めと安堵が同居した声というのは、なかなか複雑な声だ。
木本の耳は、その複雑さをきちんと聞き取る。これも経験だ。
——いや、経験だけじゃない。木本の頭の奥が、また痛む。この男の周りの空気が、微かに歪んで見える。他の職員には見えていない。木本にだけ見える。なぜ見えるのか、木本には分からない。
分からないことは、記録する。記録すれば、いつか分かるかもしれない。
男は髪をかき上げた。
耳が見えそうで見えない。隠す動きが慣れすぎている。一瞬だけ、耳の縁が妙に尖って見えた気がした。いや、尖っているというより——形が、違う。人間の耳の形じゃない。いや待て、人間の耳には個人差がある。
でも、あの形は、個人差の範囲を少々逸脱している。
「別の方法で確認します。少しお待ちください」
「理解しました。待機します」
待機。軍隊みたいな言葉だ。ロボットみたいな言葉だ。
でも、間違ってはいない。そうか。
間違っていないのに違和感がある言葉。それは、人間の言語を別のルートで学習した証拠だ。木本は自分の仮説を胸の引き出しにそっとしまう。証拠がない段階で仮説を口に出すのは、公務員として正しくない。
木本は席に戻りながら、壁の苦情マップを見た。大きな地図に、色とりどりの付箋が貼られている。黄色が騒音、青がゴミ、赤が不審者、緑が迷子、ピンクが失せ物。カラフルだ。まるでアートみたいだ。でもアートじゃない。全部苦情だ。
付箋が固まっているエリアがある。落書きの壁がある路地周辺。失せ物、迷子、不審者。全部が重なって、地図が見えない。色が混ざって、茶色になっている。茶色の苦情地帯。なかなかに剣呑だ。
木本は一枚の付箋を剥がす。裏に走り書き。「書けないやつ」。誰の字だろう。木本の字ではない。でも、木本の気持ちだ。
書類に書けない住所に住んでいるやつ。戸籍に載らない名前を持っているやつ。マイナンバーに紐づかない存在のやつ。でも確かにいる。確かに生きている。確かにコンビニで買い物している。確かに税金払っていない。最後のは問題だ。
内線が鳴った。
「木本です」
「木本さん? また壁です」
電話の向こうは三田村巡査だ。声に疲労が滲んでいる。疲労と諦めと少しの期待とかすかな恐怖。この四つが混ざったとき、人はこういう声になる。三田村はこの声の達人だ。才能というのは、思いがけない方向に開花するものだ。
「また、光った?」
「光りました。いつもの壁です。何がどうなってるかは聞きません。聞いたら報告書に書かなきゃいけないんで」
「書かなくていいです。こちらが書きます」
「やめてください。こっちの寿命が縮みます」
「私の仕事です」
「仕事の範囲、広すぎません?」
「住民の安全も、仕事の範囲です」
「住民かどうかも怪しいんですけど」
「住んでたら住民です」
「登録されてないのに?」
「登録されてなくても、住んでたら住民です。それを登録するのが、私の仕事です」
「木本さんが区役所を辞めたら、この街、パニックになりますよ」
「辞めません」
「それだけは信じてます」
木本は電話を切る。
手帳を掴む。黒い手帳。表紙に何も書いていない。でも中には、たくさん書いてある。書けないことが、書いてある。
公務員として書けないことを、公務員が書いている。
これを矛盾と呼ぶか覚悟と呼ぶかは、人によって違う。
木本は特に気にしていない。
数字から現場へ。ズレを、目で確かめに行く。午後の外出枠を使う。それが、木本透子の仕事だ。
特別相談係の仕事だ。
給与明細には「兼務手当:なし」と書いてある。
でも、仕事だ。
窓口に戻ると、男は消えていた。
転入届の用紙だけが、机に残されていた。
記入欄の「転入前の住所」は空白のままだった。
書けなかったのだ。この世界に来る前の場所を、この世界の言葉では。

* * *
尾田大地の事務所には便利屋に必要なものだけがある。
脚立、養生テープ、誘導灯、工具箱、モップ。電球、ドライバー、軍手、ゴミ袋。ホームセンターで買える、普通のやつ。
そこにプロ仕様のNIKONとレンズ一式が混ざっているのが、この事務所のいちばん怪しいところだ。
カメラは二台ある。一台はデジタル一眼。表の仕事用。商店街のSNS素材を撮る。データは納品後に消せる。消せるから便利だ。消せるから、安心だ。
もう一台は、父のフィルムカメラ。裏の仕事用。帰還の記録はフィルムで撮る。フィルムは消せない。データと違って、焼いたら残る。消したくても消えない。父がカメラを置いて逃げても、フィルムの中の記録だけは残った。だから尾田はフィルムで撮る。消えてしまった人を、消えない方法で残すために。
レンズも三本、父から引き継いだ。全部で新車の軽自動車が買える金額だ。便利屋にしては、ちょっといい車が買える。
父に感謝——と言いたいところだが、素直に言えない事情が、尾田にはある。
父・尾田海輝。カメラマン。二十年前、観光課の街おこし協力隊の仕事で路地を撮っていた。若い尾田は、父の撮影についていった。父がシャッターを切った。ストロボが光った。あるグラフィティの壁の前に立っていた女が——消えた。
服だけが残った。靴だけが残った。女は消えた。
尾田はそれを見た。十代の目で、はっきりと見た。
父はカメラを置いて、逃げた。尾田はカメラを拾った。そのカメラで、今も撮っている。
帰還屋という仕事は、そうやって始まった。誰かに頼まれたわけじゃない。求人があったわけでもない。父が光で人を消してしまった。その事実を抱えたまま生きていくために、尾田には「知る」しかなかった。消えた人はどこへ行ったのか。壁は何なのか。なぜ光がトリガーになるのか。知らなければいけない。父のためにも。
知った結果が、今の仕事だ。帰還屋。どこからか来たモノを、どこかへ帰還させる——のではなく、正確には「帰還が起きてしまう現場」を記録し、管理し、できれば防ぐ仕事。
防げないことの方が多い。
今日もたぶん、防げない。
助手の佐倉ミサキは椅子に沈んだままタブレットを操作していた。木製で、重くて、座面が深い。どこから持ってきたのか、尾田は聞いたことがない。聞かない方がいい、という勘が働いている。
ミサキの情報網は謎だ。椅子から動かないのに、街のことを全部知っている。まるで、椅子が街とつながっているみたいだ。尾田はその理由を知っている。知っているが、考えないようにしている。
知っていることが多すぎると、人間は壊れる。
尾田はまだ壊れたくない。
「はい。今日の案件、読み上げます。地獄です」
「地獄って言うな」
尾田はカメラバッグの中身を確認しながら答える。デジタル一眼のバッテリー、メモリーカード。全部ある。全部動く。それからフィルムカメラ。父のNIKON。フィルムは入れたばかり。三十六枚撮り。ストロボの電池も確認。変えたばかりの単三四本。フル充電。——ストロボ。父と同じ道具。同じ光。同じ過ちを繰り返す可能性が、常にバッグの中にある。
「言う。現場が地獄だから。表。商店街SNS素材。定点三枚。クライアント『映えるやつで』。はい最悪」
「映えるやつ撮ればいいだけだろ」
「映えの定義、不明。クライアントの脳内にしか存在しない。シュレーディンガーの映え」
「シュレーディンガーって言うな。使い方も間違ってるぞ」
「合ってる。見るまで映えかどうか分からない」
「……まあ、合ってるか」
「次、裏。迷子と失せ物。例の路地。雑踏全景。壁の前。写り込み回収。はい、もっと最悪」
「裏って言うな。表と一緒にすると事故る」
「事故るのは毎回あなたの指。フラッシュ制御、ガバガバ。先週も飛ばした」
「あれは……光が強かった」
「毎回そう言う」
表の仕事は、地域活性化のための撮影だ。商店街のSNS素材、観光PRの画像、イベント記録。きれいに撮る。明るく撮る。「いいね」をもらうために撮る。依頼書に「映え」という単語が三回以上出てくる場合は、追加料金を請求してよいと尾田は信じている。まだ実行したことはない。
裏の仕事は、帰還屋としての記録だ。消える前の姿、残された物、証拠の回収。きれいに撮らない。ただ、正確に撮る。フィルムで。Instagramには載せられない写真。載せたらバズるかもしれないが、それをやると面倒なことになる。二十年前の父と同じことが、別の誰かの身に起きる。それだけは避けたい。
「今日はフラッシュ控える」
「信用ゼロ」
「なんで」
「先週も同じこと言った。前の週も言った。その前の週も言った。一ヶ月分のログがある」
ミサキがタブレットを傾ける。
本当にログがあった。
「フラッシュ控えると宣言した記録」が、日付とともに並んでいる。几帳面な悪意だ。
「……今日こそは」
「今日こそは、も三十二回言ってる」
「お前、そのログ何年分ある」
ミサキの指が止まる。一瞬だけ。本当に一瞬だけ。
「……それなりに」
それなり。ミサキの「それなり」は、尾田の想像より桁が違う可能性がある。でも聞かない。聞かない方がいい。
尾田は道具袋とカメラを肩にかける。重い。でも、慣れた重さだ。父のカメラの重さだ。
「区役所、今日混んでたって?」
「クレーム情報。数字に出ない人が増えてる。増えるとだいたい誰かが怒る。怒るとクレームになる。クレームになると私に来る」
「なんでお前のとこに来るんだ」
「クレームの行き場って、案外少ない。消費者センター、警察、あと私」
「三択が謎すぎる」
「あと一個言っとく。壁の前で絶対に光らせるな。光と、音と、人数と、感情。この四つが揃うと、壁が起きる。特に光。光が一番まずい」
「……知ってる」
「知ってるのにやるから言ってる」
ミサキの声が、珍しく硬い。いつもの毒舌とは違う。警告だ。本物の警告。椅子から動かない人間が、声だけで空気を変えた。
「壁の近くで光を焚くと、そこにいる人間を——こちら側の人間じゃない誰かを、向こう側に引き戻す力が働く。本人が望んでいなくても。分かったか」
「分かってる」
「二十年前と同じことが起きる」
沈黙。
「……分かってる」
ドアが閉まる。
ミサキは椅子から動かない。タブレットに新しいメモを追加する。
「尾田、今日もフラッシュ控えると言った。三十三回目」
それから、誰にも聞こえない声で呟く。
「何回でも、言い続けろ。私は——ずっと数えてるから」
* * *
路地の壁は撮影スポットになっていた。
壁一面にグラフィティ。色とりどりのスプレーアート。文字と記号と図形が混ざり合い、意味不明だが美しい。美しいから撮られる。撮られるから有名になる。有名になるからもっと撮られる。
無限ループだ。SNSの本質は、無限ループ。
——ただし、この壁のグラフィティは、誰が描いたものでもない。スプレーの痕跡がない。塗料の匂いがない。線が壁の内側から浮き出ているように見える。見える人にだけ。大半の人間には、ただのストリートアートに見える。
壁の正体を知っているのは、この街で三人だけだ。
尾田と、ミサキと、木本。
木本だけは「知っている」のではなく「感じている」に近い。理屈は分からないが、この壁の前に立つと頭の奥が痛む。そして鼻の奥に、錆びた鉄のような匂いがする。他の誰も反応していない。いつもそうだ。この壁の前だけ、木本の五感が一つ余計に起動する。なぜ自分だけなのか、木本には分からない。
観光客の声が多言語で跳ねる。英語、中国語、韓国語、タイ語。そして、聞いたことのない言語。母音と子音の組み合わせが、どの言語にも当てはまらない。でも誰も気にしない。観光地では、知らない言語はすべて「外国語」に分類される。便利な言葉だ。
尾田は定点を三枚撮る。デジタル一眼で。商店街の入り口から、昼の光で、人の流れを入れて。横構図。縦構図。引いて。寄って。表の仕事は丁寧にできる。丁寧にしないと、次の依頼が来ない。次の依頼が来ないと、ミサキの給料が払えない。ミサキの給料が払えないと、ミサキが辞める。ミサキが辞めると、尾田の仕事が三倍になる。それだけは避けたい。
動機が不純でも、丁寧な仕事ができるなら構わない。
雑踏の全景を撮る。裏の仕事は、写り込みが怖い。写り込んではいけないものが、写り込む。耳とか。爪とか。偶然映り込んだ写真がSNSに流れると、しばらくの間「謎の生物」として界隈が盛り上がる。それはそれで楽しそうだが、仕事が増えるので困る。
カメラを構えた瞬間、観光客がスマホを差し出してきた。
「シャシン!」
「はいはい。無料コース。盛りは有料」
観光客は笑う。意味が分からなくても笑う。
笑顔は世界共通だ。
いや、正確には「笑顔っぽいもの」が世界共通だ。
本当に笑っているかどうかは、笑っている本人しか分からない。
尾田はスマホを受け取り、観光客を壁の前に立たせた。カップルだ。手を繋いでいる。
ラブラブだ。爆散しろ。でも仕事だから撮る。
プロフェッショナリズムとは、感情と行動を切り離す技術だ。
フラッシュ設定をオフにする。今日は、絶対に光らせない。
絶対に。三十三回目の誓いに、今回こそ意味を持たせる。
スマホカメラのシャッターボタンを押す。一枚、二枚、三枚。観光客が満足そうに頷く。
「Thank you!」
「どういたしまして。お幸せに。爆散していいですよ」
「ありがとう!」
日本語で返された。爆散の意味が分かったのか分からなかったのかは、永遠の謎だ。
スマホを返した瞬間、路地の入口に制服が現れた。
三田村だ。警察官だ。でも警察官というより、地域の世話役だ。
三十代半ば。巡査部長。地域課。真面目すぎて損をするタイプ。真面目すぎて損をしているのに、それでも真面目を続けるタイプ。
尊敬する。損な生き方を選べる人間は、強い。
「またいる」
「便利屋なんで。便利ですよ、いろいろ」
「便利すぎる。表も裏も一人でやるな」
「先週のこと、まだ怒ってるでしょ」
「先週のは事故です」
「事故が多い人間を、事故体質と言います」
そこへ木本が来た。午後の外出枠を使っている。手帳が固い。獲物を追う目だ。区役所の窓口にいたはずなのに、ここにいる。
でも木本には「ここに来る理由」がある。
特別相談係。住民の困りごとが窓口だけで完結しないケース。
ケースファイルの束が、木本のカバンの中にある。
木本透子がここにいる場合、何かが起きているか、何かが起きようとしているかのどちらかだ。
「あなた、区役所に来ましたよね。転入届を出そうとして、住所が書けなかった方」
男が振り向く。
朝、電車でメモを確認していた男だ。
リポビタンDを買った男だ。
区役所で転入届を諦めた男だ。
顔に焦りが浮かんでいる。焦りと恐れと諦めが混ざった顔。
感情の三色丼だ。
「成立させていただけないでしょうか。この世界に住みたいんです。必要な手続きは全て行います。書類も、印鑑も、マイナンバーカードの申請も」
この世界に住みたい。
その言い方が、妙だった。「この街に住みたい」でも「この地域に住みたい」でもない。
「この世界に住みたい」。世界。スケールが大きすぎる。でも、男にとってはそれが正確な表現なのだろう。
「マイナンバーカードは今日の窓口が十七時までです」
「では、明日——」
「成立しないものを成立させる仕事は、役所にはありません。私がいるのは、成立させるためではなく、なぜ成立しないかを確認するためです」
木本の声は冷静だ。
冷静すぎて、かえって怖い。感情を排除した声。でも感情がないわけじゃない。感情をきっちり仕舞い込んで鍵をかけて引き出しの奥に押し込んだ声だ。
男は少し考えた。それから、観念したように、髪をかき上げた。
耳が見えた。
尖っている。
はっきりと、尖っている。
エルフの耳だ。フィクションでよく見るやつだ。
ただし本物だ。シリコン製じゃない。血が通っている。冬になれば冷たくなる、本物の耳だ。
木本の目が止まる。
三田村の口が止まる。
尾田の動きが止まる。
止まっても、観光客の声は止まらない。世界は続く。
「Photo!」
「사진!」
「照片!」
「Foto!」
「写真!」
音が壁に当たり、妙に揃う。揃い方が悪い。空気が震える。粘度が違う。密度が違う。このエリアの空気は、他と微妙に違う。木本は知っている。三田村も知っている。尾田は知っていてもあまり感じない。
男が震える声で言った。
「帰りたくない」
その一言に、すべてが詰まっていた。
「帰りたくない。私は、こちらの方が——」
男は震える手で、内ポケットから茶色い小瓶を取り出した。コンビニで売っている、一番安いランクの栄養ドリンクだ。
ラベルには「リポビタンD」と書いてある。定価百五十円。
ドラッグストアなら九十八円。
Amazonなら三十本まとめ買いでさらに安い。
コンビニで買ったやつだ。
木本が眉をひそめる。
「……は?」
「あの森で、命を懸けて採取しなくても! 毒草と間違える危険もなく! 魔獣に襲われる恐怖もなく! たった百五十円で——いや、ドラッグストアなら九十八円で体力が回復する! こんなポーションない! しかもコンビニに行けば二十四時間いつでも買える! Amazonプライムなら翌日届く! ポイントカードまである! ポイント貯めれば、また安く買える! 体力回復にポイントが貯まる! あの世界では体力回復するたびに命を削ったのに! ここでは命どころかポイントが増える! どういうことだ! 最高すぎる!」
男の声が大きくなる。観光客がスマホを構える。面白い光景だ。
「ここでは、ルールが書いてある! マニュアルがある! 『こうすればいい』が本屋で売っている! Amazonで翌日届く! 感覚過敏も、コミュニケーション障害も、診断書があれば配慮してもらえる! 配慮してもらえなくても、相談窓口がある! 相談窓口が、区役所に、ある! それも無料で! 無料で話を聞いてもらえる! あの世界では無料で話を聞いてもらえる場所なんてなかった! 賢者に相談したら金貨十枚取られた! 十枚!」
男の目から涙がこぼれた。
「帰りたくない! 私は明日も、エクセルを打って定時で帰るんだ! 残業代、ちゃんと出るんだ! 有給、取れるんだ! 健康診断、無料なんだ! 歯医者、保険適用なんだ! 年金、将来もらえるかどうかは怪しいが、仕組みとしては存在するんだ!」
声が裏返る。でも止まらない。
「あの世界では——私は罪人だった。何をしたかも覚えていない罪で、裁判もなく、送られた。どこに飛ぶかも分からない場所へ。死刑より残酷だと言われた。でも——」
男が両手を広げた。リポビタンDの小瓶が、手の中で琥珀色に光った。
「飛んだ先が、ここだった。最高じゃないか、この世界!」
悲痛な叫びだった。いや、悲痛というより——歓喜だった。
この世界への、純粋な、歓喜。
剥き出しの、愛。
ぎこちない言葉で、でも全力で、この街への感謝を叫んでいた。
その瞬間、男の表情に、都会のネオンと観光客のスマホのLEDが奇跡的な角度で差し込んだ。
涙の痕。汗の粒。震える唇。歪んだ笑顔。全てが完璧な陰影で強調される。
いい顔だ——
尾田の理性が飛んだ。
カメラマンとしての本能が、極上の被写体を前にして完全に沸騰した。
この表情を、この陰影を、この一瞬を残したい。
父と同じ過ちだと分かっている。
分かっているのに、指が動く。
三十三回の誓いが、燃えカスになって風に消えた。
気がつけば、指が勝手にストロボのスイッチを入れていた。
バウンス発光。
壁に反射させる。
一回。
二回。
三回。
「撮るな!」
木本が叫ぶ。
「あ、つい……!」
遅い。三十四回目の失敗が、一番盛大に炸裂した。
壁のグラフィティが反応した。
線が光った。
文字が浮かび上がった。
図形が意味を持ち始めた。
尾田は知っている。
ミサキに教わった。
光と、音と、人数と、感情——この四つが揃うと、壁が「開く」。
観光客の声。スマホのシャッター音。大勢の人。
そしてこの男の感情——この世界への、抑えきれない愛。
全部揃ってしまった。
男の輪郭が外れる。
輪郭線がPhotoshopの選択範囲みたいにぼやける。
光が収束し、空間が歪む。
物理法則が困った顔をしている。
「あああああ! 私の有給がァアアア! 来週の健康診断がァアアア! 歯医者の予約がァアアア! Amazonプライムの年会費がァアアア! ポイントがァアアア! 貯まってた三千ポイントがァアアア! マイナポイントの申請がまだ終わってないのにィィィ! この、素晴らしい世界がァアアアアアアア!」
男の叫びが、途中で途切れる。
音が吸い込まれる。
次の瞬間、壁に吸い込まれ、男はいなかった。
観光客がざわつく。
スマホを構える。
動画を撮る。
撮りながら笑う。
SNSにもう上がっている気がする。
「Magic?」
「Amazing!」
「不可思議!」
「すごい!」
三田村が即座に返す。
声が裏返っている。
「マジックです! 自治体の! 地域活性化の一環です! 予算、出ました!」
「イッツアショウ!」
木本が静かに訂正する。
「自治体にそんな予算はありません」
「じゃあ何て言えばいいんですか!」
「何も言わなくていいです。明日には、もっと面白い動画がバズってます」
「それ、いつも木本さん言いますけど」
「人間の注意力は有限です。有限であることは、時に救いになります」
尾田がカメラを下ろし、消え入るように言う。
「……また帰しちゃった」
二十年前と同じだ。父と同じだ。光を焚いて、人を帰してしまった。帰りたくない人を。
「返品みたいに言わないでください」
木本が冷たく言う。足元には、男が着ていたポリエステル製の安いスーツが、中身を失ってバサリと崩れ落ちていた。
空間の境界は有機物しか通さないらしい。服も靴も眼鏡も、全部残る。仕組みを作った人間——あるいは人間じゃない誰かは、近代の衣服文明をおそらく想定していなかった。
服に混じって、いろいろなものが転がっている。軽すぎる硬貨。金色だが金ではない。アルミホイルみたいに軽い。使えない。メルカリにも出せない。出したとしても、送料の方が高い。
そして、手帳。
木本が手帳を拾う。
ページをめくる。
「相手の目を見すぎない(二秒で視線を外す)」
「相づちは三回に一回(多すぎると不自然、少なすぎると失礼)」
「笑顔は口角を上げる(でも歯は見せすぎない、怖いから)」
「困ったら『申し訳ございません』(理由は後で考える)」
「エレベーターでは『開』ボタンを押す(押されたら『すみません』と言う。押した人は『いえいえ』と返す。この交換が成立したとき、一瞬だけ人類は優しい)」
木本の手が止まる。
これは男のメモのだ。
自分も似たようなことをしていた時期があった。
施設で育った子供は、「普通」のやり方を誰かに教わるのではなく、自分で観察して、メモして、真似して覚える。
木本の字が丁寧なのは、施設の先生に教わったからだ。
でもメモを取る癖は——誰に教わったのだろう。
覚えていない。
覚えていないのに、やめられない。
手帳の最後のページ。
「この世界、最高」
木本が手帳を閉じ、長いため息をついた。
「……帰りたくなかったのに」
「帰しちゃいましたね」
木本が尾田を見る。
目が、いつもより冷たい。
絶対零度に近い。
宇宙空間のような目だ。
「あなた、なぜ光らせたんですか」
「被写体が呼んだから……かなぁ」
言い訳だ、と分かっている。
でも本当のことだ。
あの表情を撮りたかった。
あの光を残したかった。
彼が何者かなど、関係なかった。
帰りたくないと叫んでいる人間の剥き出しの感情が、どうしようもなく美しかった。
その美しさのために、俺は人を帰した。父と同じだ。
「二度と呼ばれないでください」
「はい……」
「次は、許しません」
「はい……」
「本当に」
「……ストロボ、助手に預けます」
「それが一番いいです」
木本は手帳とスマホを証拠品袋に入れ、残留物を丁寧に回収する。
「粗大ゴミ、回収します」
「ゴミじゃないでしょ」
「ゴミです。不法投棄されたゴミです。これを回収し、適切に処理するのが、私の仕事です」
木本の声は、震えていた。
三田村は何も言わなかった。言える言葉が、なかった。

* * *
夜。尾田の事務所。
ミサキは椅子から動かない。動かないのに、現場の結果だけは受け取る。受け取り専門の生き方だ。でも、受け取るだけで情報を整理し分析し保存し必要なときに引き出せるなら、それは立派な仕事だ。というか、それができない人間の方が多い。
「返却、出た?」
「出た」
尾田が硬貨と手帳を机に置く。
ミサキが初めて身を乗り出す。
珍しく、興味を示した。
椅子から上半身だけ乗り出す。
下半身は、まだ椅子にある。
半分だけ動いた。
ミサキにとって、これは最大限の反応だ。
「手帳の最後のページ、見た?」
「見た」
「すごいと思わない?」
「何が」
「マニュアルが何版まであるか。数えた?」
ミサキが手帳を繰る。
対人フレーズ集、会議対応、ファミレス対応、エレベーター対応、コンビニ対応、公共交通機関対応。
全部にバージョン番号がついている。
ついでに「失敗した記録」と「改善した内容」もついている。
「ファミレス対応がver.3。会議がver.12。対人フレーズ集がver.23」
「そう。ver.23まで改善してる。二十三回、諦めてない」
ミサキの目が、少しだけ柔らかくなる。普段の目は、データを見る目だ。感情がない。でも今は、少しだけ、人を見る目になっている。
「生き方をマニュアル化するって、すごいことだよ」
「お前もやってるだろ」
「私は観察してるだけ。この人は、実践してた。毎日、実践してた」
ミサキの声に、何かが滲む。
「毎日」という言葉の重みが、尾田の知る「毎日」とは違う気がする。
ミサキの「毎日」には、尾田の想像を超える長さが含まれている——かもしれない。
「……うん」
「帰りたくなかったのに」
「……うん」
「帰しちゃった」
「……ストロボ、預かって」
ミサキはストロボを受け取り、引き出しにしまった。
鍵をかけた。鍵はミサキのポケットに入った。
尾田は何も言わなかった。
言えなかった、というより——慣れていた。
大事なものを、誰かに預ける感覚に。
「合鍵は作らせない」
「……分かった」
「嘘つく可能性があるから言っとく。合鍵を作ろうとしたら、このログを木本さんに送る」
「鬼か」
「鬼は角がある。私は角がない。ただの人間。ただし記録は取る」
ただの人間。ミサキがそう言うとき、尾田の背筋が少しだけ冷える。知っているからだ。ミサキが「ただの人間」ではないことを。でも黙る。黙ることも、仕事のうちだ。
沈黙。
ミサキがタブレットを打ち込む。淡々と、正確に。でも今日は少し違う。打ち込みながら、呟く。
「ねえ」
「何」
「帰還って、誰のため?」
尾田は答えられない。帰りたい人のため?
でも今回の人は帰りたくなかった。罪人として送り込まれて、ここが楽園だと思って、マニュアルまで作って、必死に生きていた。誰が決めるんだ、帰すべきかどうかを。
この街が決める?
向こうの世界が決める?
それとも物理法則が?
「……分からない」
「私も分からない」
「でも帰してしまった」
「帰してしまった」
二人で、しばらく黙っていた。事務所の時計が、カチカチと鳴る。安い時計だ。でも正確だ。時間だけは、正確に刻む。
* * *
同じ夜。区役所。閉庁後。
木本は端末に向かっていた。
キーボードを叩く音だけが、静かな執務室に響く。
カタカタカタ。
リズムがある。
リズムが気持ちを落ち着かせる。
「路地周辺の偏り(参考資料No.347)及び、無機物の残留法則について(追記:帰還個体の主観的幸福度に関する考察)」
タイトルが長い。
長すぎる。
でも短くできない。
全部、必要だから。
「参考」という言葉は便利だ。参考だから正式な報告書じゃない。参考だから上司の決裁がいらない。参考だから書けないことも書ける。参考だから誰も読まない。誰も読まない報告書を書くのは、書かないと忘れるからだ。忘れたら意味がなくなる。意味がなくなったら、彼がただ消えただけになる。それは、許せない。
木本はNo.347のファイルを作る。
手帳のコピー、スマホのスクリーンショット、残留物の写真。
全部ファイルに入れる。
そして最後に、メモを書く。
「当該個体は、当該世界における生活に高い満足度を示していた。マニュアル化された社会システムが当該個体の特性に適合していたと推察される。本人の意思に反する帰還が発生したことは、極めて遺憾である」
「遺憾」という言葉は、公務員がよく使う。
責任を認めないけど残念だと言いたいときに使う。
今回は、本当に遺憾だ。
本当に残念だ。
本当に悔しい。
木本は引き出しを開けた。
No.1からNo.346まで。
全部、帰還の記録。
全部、残念だった記録。
全部、忘れてはいけない記録。
木本はNo.1を取り出す。三年前の記録——ではない。
No.1だけ、紙の質が違う。
もっと古い。
インクが褪せている。
日付を見ると、二十年前だ。
木本が施設にいた頃の日付だ。書式も違う。公務員の書式じゃない。
ただの、ノートの切れ端だ。書いた人間の手が、震えていたことが分かる字だ。
汚い字だ。
木本の字は、丁寧だ。施設の先生に教わった字だ。この字とは、正反対だ。
——でも、メモを取る癖だけは、同じだ。
木本はNo.1をすぐに引き出しに戻す。見慣れた動作で。毎日見ている動作で。このノートの切れ端が誰のものなのか、木本は知らない。
施設の荷物に混ざっていた。
母のものかもしれない。
母の顔は覚えていない。
覚えているのは、この汚い字だけだ。
それから手帳を開く。
「帰還未遂者リスト」。
まだここにいる人たち。
「No.23:カフェで毎日同じ席に座る女性。イヤホン常時着用。メール送信に異常な時間をかける」
今日もあのカフェの窓際にいた。木本は出勤途中に見た。イヤホンの下で、唇が微かに動いていた。日本語じゃない何かを、復唱しているように見えた。
「No.47:屋上で一人で弁当を食べる男性。タイマーを十二時三十分に設定。空を見上げる癖あり」
先週、木本は昼休みに屋上に行った。たまたまだ。その男性がいた。空を見上げていた。目が、何かを探していた。太陽を探しているような目だった。太陽は一つしかないのに。
「No.81:通勤電車で意識的に動く女性。スマホに『通勤ガイドver.8』保存」
今朝、千代田線で見かけた。ドアの前で、スマホを確認してから乗り込んでいた。マニュアル通りに。完璧に。でも、完璧すぎて、かえって不自然だった。
全部、木本が観察した人たち。全部、台帳にない人かもしれない人たち。
確証はない。
でも、確かにいる。
守れないけど、せめて記録する。
記録すれば、忘れない。
忘れなければ、いつか守れるかもしれない。
木本は窓を閉める。
夜の北千住が、静かに光っている。
コンビニの光、居酒屋の光、信号の光。
全部、小さくて、温かい。
明日も、仕事だ。
* * *
深夜の路地。午前一時。
壁の前に「撮影禁止」の紙が増えていた。
日本語、英語、中国語、韓国語、タイ語、スペイン語、フランス語、ロシア語。
そして、読めない文字。
十一カ国語に及ぶ撮影禁止。
この熱量は、何かが起きているサインだ。
観光客が首をかしげる。「これ、ナニ?」
禁止されると、かえって撮りたくなる。
これは知的生命体の共通設計だ。
「立入禁止」の看板がある場所に人が集まり、「触るな」と書いてあるものに手が伸び、「撮影禁止」の壁がSNSに上がり続ける。
禁止の言語を増やしても、本質的な解決にはならない。
風が吹き、貼り紙が一枚めくれる。
グラフィティの線が見える。
線が、文字みたいに見える。
文字が、記号みたいに見える。
記号が、意味を持つみたいに見える。
壁は消せない。消したら別の場所に現れる。
グラフィティをきれいにすると、近所の別の壁に移動する。
迷惑施設みたいな動き方だ。
管理するしかない。この場所に固定して、管理下に置くしか。
帰りたい人だけ帰す。帰りたくない人は帰さない。そのための管理。
たまに間違って帰してしまう、例外もある。
——誰かが、そう決めた。ずいぶん昔に。
壁は答えない。ただそこにある。明日も、そこにある。
* * *
路地から少し離れた場所。ビルの影。
一人の女性が立っていた。壁を見ている。
でも、近づかない。距離を保っている。
完璧に整えられたスーツ。
完璧に結ばれたネクタイ。
完璧にセットされた髪。
完璧に磨かれた靴。
完璧に調整された表情。
完璧すぎて、かえって不自然だ。
完璧すぎるものは、いつも何かを隠している。
女性は小さくため息をつく。
「はふぅ」
呟きは、誰にも聞かれない。
女性は髪をかき上げた。
耳が見えた。
尖っている。
はっきりと、尖っている。
エルフの耳。
でも、隠さない。
今は誰も見ていないから。
隠すのに、疲れたから。
百年も隠していれば、疲れる。
「帰りたくない者を、帰してしまう」
「帰りたい者を、引き留めてしまう」
女性は踵を返す。
完璧に整えられた足音。一定のリズム。
計算された歩幅。
まるでメトロノームみたいだ。
女性の姿が、闇に溶ける。
でも、完全には消えない。
シルエットだけが、少し残る。
そして、思う。
日中、区役所の女を見た。
手帳を抱えて、硬い足取りで歩く、あの女を。
あの女は、書こうとしている。
書けないものを、書こうとしている。
台帳にないものを、台帳に収めようとしている。
夏子の子だ。
あの子は知らない。
自分が何者なのか。なぜメモを取るのか。
なぜ頭の奥が痛むのか。なぜ数字に出ない人が「分かる」のか。
やがて、辿り着く。
私のところへ。
その時まで、待つ。
この世界で、待つ。
二十年、待った。
あと少しだけ、待てる。
この世界は——悪くない。
いや、正直に言おう。
コンビニがあって、ファミレスがあって、Amazonがあって、マイナポイントは正直よく分からないが、雰囲気はいい。
最高だ。
最後の呟きは、誰にも聞かれなかった。
* * *
——翌朝。千代田線。綾瀬発、大手町方面代々木上原行。
午前七時四十二分。
昨日と同じ電車。昨日と同じ車両。
昨日、あの男が立っていた場所に、別の誰かが立っている。
スマホを見ている。
何かを確認している。
何かに備えている。
隣のOLもスマホを見ている。
向かいの学生もスマホを見ている。
全員、何かのマニュアルで生きている。
ドアの前で、スマホを確認してから乗り込む女性がいた。
マニュアル通りに。
完璧に。
昨日もいた。
一昨日もいた。
明日もきっと、いる。
その中に、一人か二人、耳を隠している人がいるかもしれない。
いないかもしれない。
でも、いるかもしれない。
いや、いないのかもしれない。
そうか、居てほしいのかもしれない。
(暗転)