小説

OTOGI話

第1章:KAGUYA姫~月面パパ活

【プロローグ:竹取物語の不都合な真実】

『竹取物語』。それは日本最古の物語であり、最も有名な「異物混入」の記録である。

竹藪で光る竹を見つけた老人が、中から出てきた小さな女の子を連れ帰る。 老人は娘を育てるために竹を切り続け、そこから溢れ出る黄金によって巨万の富を得る。 やがて美しく成長した娘――かぐや姫は、求婚者たちに無理難題を突きつけ、帝(みかど)の求愛すら拒絶し、最後は迎えに来た「月」へと帰っていく。

めでたし、めでたし。

……本当にそうか? 冷静に考えてみてほしい。 竹の中にいたのは、言葉も通じない、生態系すら不明な「地球外生命体」だ。 それを我が子のように愛し、異常な執着で育て上げた老人の脳内は、一体どうなっていたのか。 黄金は本当に竹から出たのか? それとも、娘の愛を繋ぎ止めるために老人が血眼になってかき集めた「穢れた金」だったのではないか。

「疑似パパ」

月からの使者は、本当に「迎え」だったのか。 それとも、用済みになった老人を廃棄するための「回収業者」だったのか。

昔話はいつも残酷だ。 不都合な真実は、「めでたし」という名の分厚いコンクリートで、誰かの言葉と遺体と共に埋め立てられている。


【1. DADA】

北千住の空気は、いつも少し湿気ている。 荒川と隅田川に挟まれたこの街は、巨大なスポンジのように昭和の澱(おり)を吸い込んでいる。

俺がこの街に流れ着いた二十年前は、まだマシだった。空気が汚いなりに、一本筋が通っていたからだ。「ここは東京の浄化槽です」という開き直ったような潔さがあった。 だが、つくばエクスプレスとかいう銀色の新しい血脈が開通してから、街はおかしくなった。

駅前には、雨後の筍のようにタワーマンションや大学のキャンパスが生えてきた。そのせいで、昼間は「意識の高い学生」と「ベビーカーを押すキラキラした若夫婦」が闊歩している。 だが一皮むけば、そこには昼間からワンカップ大関を片手に競艇新聞を広げる、この街の原住民たちが健在だ。

お洒落なカフェの隣で、今にも崩れそうな立ち飲み屋がモツを煮込んでいる。 最新のセキュリティを誇るタワマンの足元を、ドブネズミが堂々と横切っていく。 この二十年で、北千住は「厚化粧した老婆」みたいになった。遠目には若作りだが、笑うとファンデーションのひび割れから、隠しきれない昭和の皺(しわ)が顔を出す。

路地裏に入れば、その皺はさらに深くなる。 空は蜘蛛の巣のように張り巡らされた電線に覆い隠され、昼間でも薄暗い。錆びついたトタン壁の隙間からは、焼き鳥の煙と、安酒の甘ったるい匂いが常に漏れ出している。 頭上では、東武線、常磐線、地下鉄が、ひっきりなしに轟音を立てて交差していく。街全体が、消化不良を起こした巨大な生き物の胃袋の中で唸りを上げているようだ。


千代田線北千住駅の西口から階段を上り、左手のマックを曲がった飲み屋街。立ち飲み天七の先を右に曲がった焼肉京城の向かいの路地裏の半地下にある喫茶『キマイラ堂』。

重い木製のドアを開けると、カウベルが間の抜けた音を立てた。

ダダ 「……あーあ。また外した。なんでそこで差すかね」

カウンターの隅。尾田大地(通称:ダダ)は、スマートフォンの競馬画面を伏せ、目の前のコーヒーを睨みつけた。中身は黒く濁り、油膜が浮いている。


この街――北千住の空気を二十年も吸っていれば、内臓だってとっくにアスファルト色に染まっちまう。

二十年前。俺がこの街のドブ川の淵に流れ着いた時、俺は「尾田大地」という名の、ただの抜け殻だった。 希望も、未来も、そして左目も、東京湾の底に沈めてきた直後だったからだ。

俺はあるフリージャーナリストの女の下で、カメラマンの見習いをしていた。

「ババア」と俺が呼んでいたその女は、業界でも有名な変わり者で、いつも安酒とタバコの臭いをプンプンさせながら、社会の掃き溜めみたいな場所ばかりを嗅ぎ回っていた。

『いいか、大地。カメラってのはな、真実を写す機械じゃねえ。人間の業が一番輝く瞬間を、剥製にするための道具だ』

それがババアの口癖だった。 人間が嘘をつき、他人を蹴落とし、金や欲に塗れて、それでも何かにしがみつこうとする、最も醜く、最も滑稽で、それゆえに最もエネルギーに満ちた瞬間。ババアはそれを「人生の絶頂」と呼んだ。

俺はその背中を追いかけ、言われるがままにシャッターを切った。

政治家の汚職、企業の隠蔽、カルト教団の洗脳現場。ファインダー越しに見る世界は腐敗臭に満ちていたが、同時に、妙に生々しい熱を帯びていたことも事実だった。

だが、ババアは踏み込みすぎた。 ある時、彼女は「現代のお伽話」を売り物にしている奇妙なコンサルティング会社の存在を嗅ぎつけた。

人々を洗脳し、破滅させ、その骨までしゃぶり尽くす巨大なシステム。

『こいつはデカい山だ。上手くいけば、この国の膿を全部ひっくり返せるかもしれねえ』

そう言って笑った話した、翌日、ババアは死んだ。

湾岸倉庫の爆発事故。警察の発表はそれで終わりだ。

彼女が集めた膨大な資料も、証拠も、彼女の肉体と共に跡形もなく消し飛んだ。

俺もその場にいた。 だが、俺は生き残った。左目と、それまでの記憶の半分を引き換えにして。

病院のベッドで目を覚ました時、俺の左目には、眼帯が当てられていた。 そして右目には――覚えのない「異物」が埋め込まれていた。

医者は言った。

「奇跡的にドナーが見つかりました。最新の人工網膜です。適合手術は成功しましたよ」と。

成功? 笑わせるな。 眼帯を外した瞬間、俺の世界はノイズに覆われた。

看護師の顔を見れば、彼女の借金歴や堕胎の記録が、砂嵐のような映像となって脳内に直接流れ込んでくる。

見舞いに来た刑事の顔を見れば、彼が裏で繋がっているヤクザの名前が浮かび上がる。

この右目は、ただの義眼じゃなかった。どこかの巨大なデータベースと直結した、悪趣味な受信端末だったんだ。

俺は悟った。これは「治療」じゃない。「呪い」だ。 ババアを消した連中が、生き残った俺の体に仕込んだ、生きた監視カメラ。

俺が見るものは全て、奴らにも見えている。俺は知らぬ間に、奴らの手先として、この世の汚物を収集するための端末に改造されていたんだ。

退院した俺は、逃げた。

名前を捨て、過去を捨て、奴らの監視網から逃れるように、東京の東の果て、荒川と隅田川に挟まれたこの北千住という街に潜り込んだ。

当時、再開発前だったこの街は、まだ昭和の混沌が色濃く残る、巨大な迷宮だった。

犯罪者も、不法滞在者も、社会からドロップアウトした人間たちも、全てを飲み込んで隠してくれる、懐の深いドブ街。

俺は路地裏の安アパートに身を隠し、右目の激痛に耐えながら、ただ死ぬのを待っていた。

そんな俺を拾ったのが、マスターだった。

ある雨の夜、高熱を出して路地裏でうずくまっていた俺を、この巨漢の男は無言で担ぎ上げ、自分の店――この『キマイラ堂』の地下室に放り込んだ。

マスターは何者なのか。なぜ俺のような厄介者を匿ったのか。 二十年経った今でも、彼は多くを語らない。

ただ一つ分かっているのは、彼もまた、この街の「澱」の中に身を潜める、何らかの過去を背負った人間だということだ。

彼は俺に、店の半地下にあるかつての暗室を、住居兼仕事場として与えてくれた。

そして、脳が焼き切れそうになる右目の痛みを抑えるための、出所の怪しい特殊な点眼薬と、この泥水のようなコーヒーを、毎日黙って提供してくれる。

「ダダ」というふざけた呼び名は、この街の連中が勝手につけたものだ。 流れ着いた当初の俺が、高熱と薬の影響で、幼児のようにうわ言を繰り返していたからだとか、何を聞かれても「ダ・ヴィンチ」の画集を抱えてダダをこねていたからだとか、諸説あるが、どうでもいい。

「尾田大地」なんて立派な名前は、もう俺には重すぎる。

「ダダ」という、意味のない音の響きくらいが、この街の底で這いつくばるには丁度いい。

二十年。 俺はまだ、生きている。

ババアが追っていた「お伽話」の連中は、今もこの街のどこかで、新しい獲物を食い物にしているはずだ。

俺の右目は、時折激しいノイズと共に、奴らの気配を伝えてくる。 俺はババアの形見であるライカを握り直し、再び街へ出た。

やることは変わらない。 人間の業が最も輝く瞬間――「人生の絶頂」を撮る。

詐欺師に騙され、破滅の淵でニセモノの夢に涙する老人の顔。薬漬けになりながら、ブラック企業の社長に忠誠を誓う若者の顔。 それがどんなに滑稽で、醜悪なものであっても、俺はシャッターを切る。 それが、この呪われた右目を与えられた俺の、唯一の復讐であり、ババアへの弔いだからだ。

「……人間の業ね」


俺はカップの中の泥水を、一気に喉に流し込んだ。 舌に残る強烈な苦味とエグみが、俺の意識を二十年前の回想から、湿った現在の北千住へと引き戻す。 そうだ。俺はまだ生きている。このクソッタレな街で、クソッタレな泥水をすすりながら、クソッタレな人間たちの絶頂を記録し続ける。 それが「ダダ」という男の、しぶとい生き方だ。

ダダ 「マスター。今日のコーヒーのような黒いこれ、一段と『雑巾の絞り汁』みたいな味ですね。なにか腐ってません?鼻あります?」

カウンターの奥。巨岩のような背中を向け、無言でサイフォンを磨いている店主のマスターは、振り返りもせず低い声で答えた。

マスター 「俺はクリリンじゃねぇ。……なにか飲めるだけマシだと思え」

ダダ 「へいへい。……イテッ」

ダダは眉間を押さえ、右目にかかった黒い革の眼帯に触れた。 奥が熱い。眼球の裏側で、微弱な電流がショートしているような鈍痛がある。 この右目は、ただの義眼ではない。脳の視覚野に直結した、悪趣味な「受信機」だ。定期的に冷却液と免疫抑制剤の混合液を差さないと、脳が焼けるような拒絶反応を起こす。

ダダがポケットから点眼薬を取り出した時、ドアが開いた。 入ってきたのは、季節外れの真新しいブランドジャケットを羽織った、小太りの老人だった。

そんなに急な階段でもないのに、肩で息をしている。

竹脇 「はぁ、はぁ……! ここか……ここがカメラマンのいるbarなのか!?」

老人は七十歳前後。額には脂汗が滲み、呼吸は荒い。そして何より異様なのは、その目だ。白く濁り、焦点が合っていない。重度の糖尿病か何かで、視界のほとんどを失っているように見えた。

マスター 「……いらっしゃい。じいさん、ここはbarじゃねぇ。美味しいコーヒーショップだ。」

ダダ 「……で? じいさん、還付金詐欺にでも遭った記念に撮影ですか?」

竹脇 「ち、違います! あなたが……『人生の絶頂』を撮ってくれるカメラマンさんですか!?」

ダダ 「……絶頂ねぇ。遺影の撮影なら写真館へ行ってくれよ」

竹脇 「遺影じゃない!彼女との新しい 門出だ! ……これを見てください。私の……私の『姫』です!」

老人は震える手でスマートフォンを突き出した。 「見てください! これが私と姫の、真実の愛の記録です!」

ダダは溜息をつき、右目の眼帯を少しだけずらした。 瞬間、スマホの画面情報が脳内に直接流れ込んでくる。マッチングアプリの膨大なログデータ。

「……うわぁ」

ダダは思わず声を漏らした。 ひどいもんだった。竹脇の痛々しいほど必死な絵文字だらけの長文メッセージ。それに対する、『KAGUYA』のスタンプ一個の塩対応。

『私は月の姫なの。帰るためのチャージ料が300万円足りなくて…🥺』

そんな幼稚園児でも信じない設定を、このジジイは「君は本物のかぐや姫だ!」と大真面目に信じ込み、全財産を差し出す約束までしている。

「(独白)……見事なもんだ。テンプレ通りのロマンス詐欺。それを信じ込む、孤独な老人。地獄の需要と供給が成立してやがる」

ダダは眼帯を戻し、憐れむような目で老人を見た。

ダダ 「……『KAGUYA』ねえ。竹林じゃなくて港区のラウンジに生えてるやつですよね。しかも十九歳? おじいさん七十歳くらいでしょ。これ恋愛じゃないですよ。遺産目当て。この遺産目当のどこが門出なんですか?」

竹脇 「失礼な! こんなじじいに さっき……彼女は実際に会ってくれたんです! ……光り輝くリムジンから降りてきて、私にこう言ったんです。あなたとの『月への帰還費用』待ってるって……!」

ダダ 「(食い気味に)それ、帰還費用じゃなくてホストへの借金返済費用要請。……で? いくら払うんです?」

竹脇 「……年金の三ヶ月分と、仏壇の純金のりん。……そしたら彼女、3/17に迎えに来てくれるって……!」

老人は虚空を見つめ、うっとりと呟いた。

竹脇 「最新鋭のロケットで……私を連れて、月へ帰るんです」

店内の空気が凍った。

ダダ 「……テスラ製の ロケットね」

竹脇 「そうです! 彼女は選ばれた月の民なんです! 3/17の20時、北千住のデパートの屋上に、静音ロケットが着陸するんです!」

老人がポケットから取り出したのは、ドン・キホーテで売っていそうな「酸素スプレー」と、手書きの「月面入国許可証」だった。

あまりにも杜撰な小道具。だが、視力の落ちた老人の目には、それが本物のNASAの装備に見えているらしい。

ダダは天井を仰ぎ、紫煙を吐き出した。

笑い飛ばして追い返すのは簡単だ。だが、ダダの背筋に冷たいものが走った。 「月への帰還」「ロケット」。その荒唐無稽なシナリオの裏に、聞き覚えのある「臭い」がしたからだ。

ダダ 「……じいさん。ちょっとじっとしててね」

竹脇 「え? な、なんです?」

ダダは右目の眼帯に手をかけた。

ダダ 「じいさんのその『夢』の成分表、ちょっと解析してもいいかな。ちょっと気持ち悪いかもしれないけど我慢して」

(ヒュンッ)

黒い眼帯が跳ね上げられる。そこに現れたのは、虹彩も瞳孔もない、白濁した「全白眼」だった。 次の瞬間、ダダの脳内を激痛が貫く。 右目の奥が発熱し、視神経を通じて巨大なデータベースから情報が雪崩れ込んでくる。 竹脇の姿がノイズに覆われ、過去のデータが二重露光のように浮かび上がる。

検索履歴:『娘 事故死』『孤独死 怖い』『糖尿病 失明』。 映像データ:二十年前の葬儀。小さな棺桶。泣き崩れる竹脇。遺影の中の少女は、今の『KAGUYA』にどことなく似ている。

ダダは呻き声を上げ、右目を手で覆った。

ダダ 「……じいさん……」

竹脇 「な、何が見えると言うんだ!」

ダダ 「じいさんは『KAGUYA』に惚れてるんじゃない。霞んだ目で、死んだ娘の幻影を重ねて見てるだけじゃないか?」

竹脇の顔色が土気色に変わる。ダダは眼帯をパチンと戻し、息を吐いた。 最後に一瞬だけ見えたノイズ――ワイングラスを揺らす男の手――が、不快な残像として脳裏に焼き付いていた。

ダダ 「(小声で)……また『オトギ』か。趣味が悪い」

マスター 「……店では静かにしてくれ」

ダダ 「じいさん、止めても無駄っぽいからな~。脳みそは、もう月面旅行に出発しちまってる」

ダダは席を立ち、カウンターの上のライカを掴んだ。

ダダ 「では、じいさん。その『宇宙規模の茶番劇』、俺が最前列で撮影しますよ。ただし、写ったものが『夢』じゃなくて『現実』でも、文句は無しで」


【2. MOON】

北千住駅西口。巨大な駅ビル「ルミネ」と「マルイ」が威圧的にそびえ立つその足元に、戦後の闇市を起源とする飲み屋街がへばりついている。
帰宅ラッシュの時間帯。ロータリーは、家路を急ぐサラリーマンの群れと、これから安酒を煽ろうとする労働者たちの熱気、そしてひっきりなしに出入りするバスやタクシーの排気ガスで、白く澱(よど)んでいた。

人混みが割れた先に、この北千住という街のくすんだ風景から、油絵具のように鮮烈に浮き上がった異物が立っていた。

カグヤだ。 全身を最新のハイブランドという「鎧」で固めている。ディオールの巨大なサングラスを頭に乗せ、季節感のないバレンシアガのオーバーサイズジャケットを肩で着崩す。

細い腕に掛けられたシャネルのマトラッセは、この辺りを歩く労働者の年収がそのままカバンに化けたような代物だ。

北千住の駅前ロータリーに、銀座のショーウィンドウの中身をダンプカーでぶちまけたような違和感。

漂ってくるのは、駅前の排気ガスと焼き鳥の煙をねじ伏せるような、甘ったるく重い外資系香水の匂い。それは「私はあなたたち地上の人間とは違う生き物だ」という、必死の威嚇フェロモンにも似ていた。

だが、ダダの冷徹なライカのレンズと、因果を視る右目は、その分厚いメッキの下にある無数のヒビ割れを見逃さない。

マッチングアプリの画面の中で、加工フィルターによって宇宙人のように目を巨大化させていた「月の姫」。

その実物は、デジタルの魔法を剥ぎ取られ、代わりに厚さ数ミリのファンデーションとコンシーラーという物理的な仮面を必死に張り付けた、疲労困憊の生身の女だった。 整いすぎた鼻筋には、ヒアルロン酸注射特有の不自然な光沢が宿る。ぷっくりと人工的に膨らませた唇は、常に不満げに尖り、微かに痙攣している。直径の大きなカラーコンタクトで黒目を縁取られた瞳は、死んだ魚のように光がなく、目の前の風景を何も映していない。

その能面のような顔に浮かんでいるのは、隠しきれない「苛立ち」と、骨の髄まで染み込んだ「倦怠」だ。


彼女はルイ・ヴィトンのスマホケースに入れたiPhoneを、長く伸びた派手なアクリルネイルの先で、カツカツカツと神経質にタップし続けている。スニーカーではなく、場違いなピンヒールを履いた左足のつま先が、アスファルトを小刻みに蹴る。ニコチンが切れているのか、時折、小さな舌打ちが赤い唇の隙間から漏れる。

「早く終わらせて、港区へ帰りたい。こんなドブ川の街に一秒でもいたくない」 全身の毛穴から、そうした拒絶のサインが叫び声のように発せられていた。

これから対面する「カモ」である竹脇の存在など、彼女にとっては道端の空き缶と変わらない。

ただ、蹴飛ばして中身を吐き出させるだけの、無機質な対象。 それは、港区という巨大な消費のシステムの中で、自らも消費されることに疲れ果て、やむなく他人を消費する側に回った、哀れな都会の捕食者の顔だった。

カグヤはルイ・ヴィトンのスマホケースに入れたiPhoneを、相変わらずカツカツカツと神経質にタップし続けていた。

画面に表示されているのは、昨夜のホストクラブの売掛残高と、担当ホストからの素っ気ないLINEメッセージ。 『今日中にあと50万、入れといて。無理なら店来んな』

昨夜の記憶が、二日酔いの頭痛と共にフラッシュバックする。

――歌舞伎町、地下のホストクラブ。 安っぽいEDMと、男たちの嬌声。目の前には、私の金で建てられたシャンパンタワーが、下品な光を放って聳え立っていた。

「美咲のおかげで今月もナンバーワン確定だわ。愛してるよ、姫」

担当のレイジが、耳元で甘く囁く。その目は笑っていない。私がタワーの代金をツケにした瞬間、彼の手は私の肩から離れ、次の席の太客へと移っていった。

グラスに残ったぬるいシャンパンを見つめながら、私は吐き気をこらえていた。

これが「愛」? ふざけんな。これはただの集金システムだ。

私が体を張って稼いだ金が、この男のランキングと、店のオーナーの懐を肥やすためだけに吸い上げられていく。

そして今朝。「オトギ・コンサルティング」の事務所。 無機質な会議室で、事務員の男が冷たく言い放った。

「次のターゲットは北千住のジジイだ。マニュアル通りにやれ。報酬は回収額の三割。残りはホストクラブへの返済と、ウチの手数料で相殺しとくから」

渡されたのは、ペラペラの「竹取物語マニュアル」と、撮影用のドローンが入った安っぽいアタッシュケース。

「姫」? 笑わせる。

私はただの使い捨ての集金マシーンだ。

港区で搾取され、歌舞伎町で搾取され、今度はこのドブ臭い北千住で、死にかけのジジイからなけなしの年金を搾り取る汚れ仕事をさせられている。

「……クソが」


カグヤはスマホの画面を睨みつけ、小さな声で吐き捨てた。 苛立ちが頂点に達する。この街の湿った空気も、ジロジロ見てくる通行人の目も、何もかもが神経を逆撫でする。

その時、視界の端に、よろよろと近づいてくる小太りの老人の姿が入った。 竹脇だ。 カモが来た。私の借金を肩代わりする、哀れな生贄。

カグヤは深く息を吐き、能面のような顔に、完璧な「ビジネスマイル」を張り付けた。

カグヤ 「タケさーん、来てくれてありがと。……で? 持ってきてくれたー? 私たちの『帰還費用』」

竹脇 「も、もちろんさ! これが……私たちの「帰還費用」だ!」

竹脇は、スーパーのビニール袋に入った現金の束を差し出した。

カグヤ 「……(ダサっくさっ)ありがと。……で、そっちの薄汚いおっさんはどなた?」

竹脇 「凄腕のカメラマンなんだ、お願いして来てもらったんじゃよ。 月への旅立ちを記録に残したいんだ! どうしても!」

とりあえず、阿保のように笑ってうなずいている、ダダ。そして、カメラに話しかける。

到底、凄腕には見えない。

ダダ「今日もライカちゃんは美しいですねー、ぷっぷー!」

カグヤ 「(チッ、面倒くさい。まあどうせボケ老人と三流阿保カメラマンっぽいし、終わったら即ドロンすればいいか……)はーい。じゃあ、行きましょ。ロケットは屋上に待たせているの」

彼女が背を向けた瞬間、ダダは右目で彼女を「スキャン」した。

(ズキリ)

鈍痛と共に、視界が歪む。カグヤの姿に、ノイズ混じりのデータが重なる。 『氏名:飯島 美咲(19)。住所:足立区竹ノ塚。負債:500万円(ホストクラブ売掛金)』

さらに、彼女が神経質にタップしているスマホの画面が、ダダの脳内にミラーリングされる。 ホストからの督促LINE。『今日中にあと50万、入れといて』。 続いて、彼女の脳裏をよぎる記憶の断片が、ノイズ混じりの映像としてダダの視界に割り込んでくる。歌舞伎町のシャンパンタワー。冷たい目のホスト。「オトギ」の事務所で渡されたドローン……。

ダダ 「(独白)……なるほどな。月のお姫様のご住所は竹ノ塚。借金まみれのシンデレラってわけだ」

【3. HANABI】

雑居ビルの屋上。錆びたフェンスの向こうに、北千住の夜景が広がっている。

眼下には、密集する古い木造家屋の屋根が黒い海のように広がり、その向こうに、荒川の土手が巨大な防波堤のように横たわっている。遠くにはスカイツリーの赤い航空障害灯と、最近雨後の筍のように生えてきたタワーマンション群の無機質な光が、冷ややかに街を見下ろしていた。
湿った川風が吹き抜け、首都高速の走行音が絶え間なく響いている。

カグヤ 「……そろそろ時間ね。目を閉じて」

竹脇 「は、はい……!」

老人が目を閉じる。カグヤがスマホの画面をタップした。 シュボッ! ヒュルルル……! ビルの陰から、数機のドローンが一斉に浮上した。LEDライトとスモークマシンが煙を吹き出し、ポータブルスピーカーから「発射音」が響き渡る。

カグヤ 「見て! 『月への船』よ!」

竹脇が目を開ける。 彼の視界――視力0.1以下の世界――には、光の塊が煙を上げて上昇していく様が、まるで巨大なロケットのように映った。

竹脇 「おお……! ロケットだ……!」

ダダはファインダーから目を離し、わざと目を細めてみた。 視界をぼやけさせると、チープなドローンの光が滲み、スモークが雲のように広がる。なるほど、この老人の目には、これが本物に見えているのだ。

ダダ 「(独白)……クソったれな茶番だ。だが、演じてる客(じいさん)の目だけは本気だな」

その時、ダダの右目が微かに熱を帯びた。 竹脇の脳内で再生されている「記憶」が、あまりにも強く、鮮明な信号となってダダの視神経に逆流してきたのだ。

竹脇 「……ヨーコ、見えるか? お父さん、約束守ったぞ」

竹脇は懐から、一枚の古い写真を取り出した。 二十年前のスナップ写真。写っているのは、安物のスニーカーを履いてピースサインをする少女。

ダダの視界が揺らぎ、目の前の光景にノイズが走る。 砂嵐の向こう。ドローンの光が、二十年前の「縁日の裸電球」の光に変わる。

――夏祭りの喧騒。 浴衣姿の小さな女の子(ヨーコ)が、竹脇の手を引いて走っている。

『パパ! あれ! かぐや姫のお面!』

竹脇は困ったように笑い、財布の中の小銭を数えている。 貧しいけれど、どこまでも温かい団地の夕暮れ。 安物の扇風機の前で、スイカを頬張りながら、父娘でテレビのアニメ映画を観ている。

『パパ、かぐや姫はなんで月に帰っちゃうの?』 『それはね……月が、世界で一番綺麗な場所だからさ』 『ふーん。じゃあ、ヨーコもいつか行きたいな。パパと一緒に!』 『ああ……約束だ。いつか必ず、パパが連れて行ってやる』

――プツン。 ノイズが途切れ、映像が現在(屋上)に戻る。

竹脇 「あの靴……欲しがってた『エアマックス』じゃなくてごめんな。パパ、あれしか買えなくて……。 ずっと、お前を月に帰してやりたかったんだ……」

老人は写真を胸に抱きしめ、ドローンの光を見上げて泣いていた。 彼が見ているのは偽物のロケットじゃない。 二十年間、一度も色褪せることのなかった、愛娘との約束の光だった。

その写真を見た瞬間、カグヤの表情が凍りついた。

(ザザッ……!)

ダダの右目に、激しいノイズが走る。 目の前の女の感情が、許容量を超えて逆流してきたのだ。ダダの視界に、カグヤのものではない、別の風景が二重露光のように焼き付く。

――カビ臭い団地の玄関。母親が投げ捨てた、量販店の安物スニーカー。 『お前にはそれでお似合いだよ』 呪いのような言葉。家出の夜、泣きながらその靴を履いて走る少女の足元――。

それは、カグヤが封印していた、惨めな過去の記憶だった。

カグヤ 「(……なによ、それ)」

ドローンの光と音がかき消え、カグヤの脳裏に、湿った記憶が蘇る。


――北関東というか南東北郊外の、カビ臭い団地の三階。もちろんエレベーターは無い。玄関。 高校一年の冬。 流行りのエアマックスをねだった美咲(カグヤ)に、母親はパート帰りの疲れた顔で、スーパーの袋からその靴を取り出した。

『すぐ足大きくなるんだから、これで十分でしょ』

違う。私が欲しかったのは靴じゃない。「みんなと同じ」になれる切符だった。 その安っぽいマジックテープのバリバリという音を聞くたびに、自分が世界で一番みすぼらしい存在に思えて、死にたくなった。

家を飛び出したあの夜。 玄関で掴んだのも、結局その靴だった。 東京に出てきて、パパ活で稼いだ金でブランドのヒールを買い漁っても、あの靴の感触だけが、呪いのように足の裏に張り付いて離れなかった。

なのに。 目の前のジジイは、その呪いの靴を「買ってやれなくてごめん」と泣いている。 私の親が決して言わなかった言葉を、二十年も前の写真に向かって詫びている。


カグヤ 「(……やめてよ。そんな顔で、その写真を見ないでよ)」

カグヤの手が震える。 オトギ・マニュアルにある冷酷な『さよなら』のセリフが、喉に張り付いて出てこない。 彼女は唇を噛み締め、逃げるように背を向けた。

カグヤ 「……っ! もう時間よ! さよなら!」

彼女は竹脇の手から現金の袋を受け取ると、その一瞬の隙に、自分の財布から数枚の万札を抜き出し、竹脇の空いたポケットにねじ込んだ。 それはマニュアル違反であり、彼女自身の「明日の生活費」でもあった。

カグヤ 「……長生きしなよ、クソジジイ!」

カグヤは踵(きびす)を返し、屋上の出口扉へと走った。 その背中は、罪悪感と焦燥感で小さく震えていた。

だが、扉に手をかけた瞬間。 彼女は背後に、自分を見つめる「冷たいレンズの気配」を感じ取った。

――見られてる。あの薄汚いカメラマンに。 私が惨めに尻尾を巻いて逃げ出すところを。

カグヤ 「(……ナメんじゃないわよ)」

彼女の足が止まる。 カグヤは勢いよく振り返った。 その目には涙が溜まっていたが、口元だけは、港区で磨き上げた「プロの笑顔」を完璧に張り付けていた。

彼女はダダのカメラに向かって、高く突き立てた右の中指を突きつけた。

カグヤ 「……バーカ!」

音のない口の動き。 それは老人への言葉ではない。 貧乏な過去、薄汚い現在、そして自分をこんな目に遭わせているクソったれな世界への、精一杯の「Fuck You」だった。

カシャッ。

ダダは無慈悲にシャッターを切った。

そしてすぐにカメラを振り、もう一つの被写体――嘘のロケットを見上げて、幸せそうに泣き崩れる老人――をフレームに収め、もう一度シャッターを切った。

カシャッ。

屋上には、ドローンの間抜けな飛行音だけが残された。

【4. エピローグ:TANUKI】

キマイラ堂。 客は皆無。

マスターが客もいないのに、黒い腐った液体を作っている。

ダダは現像したばかりの、まだ湿り気を帯びた二枚の写真をカウンターに並べていた。

一枚目。 光るドローンを見上げる竹脇の横顔。その表情は、まるで宗教画の聖人のように無垢で、美しく、そしてどうしようもなく愚かだった。

二枚目。 屋上のドアの前で、完璧な笑顔を作りながら中指を立てるカグヤ。その目には涙が滲んでいるが、全身から「アタシは負けてない」という痛々しいほどの虚勢が溢れ出ている。

マスター 「……。ここで写真広げるんじゃねぇ」

マスターが泥水のようなコーヒーを置きながら、低い声で唸った。

マスター 「ジジイと小娘か。いいからここで写真を広げるんじゃねぇ」

ダダ 「……どっちも『人間』ってやつをやんのに必死なだけだ」

マスター 「聞いてんのか?広げるんじゃねぇ」

ダダはタバコに火をつけ、紫煙越しに二枚の写真を眺めた。 全財産をスッた老人と、借金まみれの女。 この街の底で蠢く、愛すべき馬鹿たちの記録。

ダダ 「ま、割に合わねえ人生だわな。どいつもこいつも」

その時。 不意にダダの右目の奥が焼けつくように熱くなった。 視界がノイズで埋め尽くされる。砂嵐の向こう、高級ラウンジの映像が一瞬だけフラッシュバックする。 ワイングラスを揺らす、初老の男の手。

『――素晴らしい構図だ。感動したよ、ウサギちゃん』

脳内に直接響くような、粘着質な声。オトギの代表、多貫(タヌキ)だ。

ダダ 「……ッ!!」

ダダは反射的に右目を手で覆い、呻いた。

マスター 「……」

ダダ 「また……見てやがった。俺の目でおとぎ話鑑賞してたわ……」

ダダは憎悪を込めて、虚空を睨みつけた。 人々の「物語」を食い物にする怪物たち。

ダダ 「……ぽんぽこタヌキ。泥舟か」

マスター 「……独り言怖いからやめろ」

今世紀最高の街、北千住。ダダの右目は、熱を帯びて赤く充血していた。

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