小説

『台帳にない隣人』

第1話 頭隠して尻隠さず

PROLOGUE

【ナレーション】夜の街は、明るすぎる。看板が光り、スマホが光り、コンビニの床まで光っている。それでも人の目の奥は暗い。暗いまま明日をやる。暗いまま電車に乗る。暗いまま笑う。

【ナレーション】異世界転生が流行るのは、現代がしんどいからだ。説明できない理不尽があって、説明できない孤独がある。

【ナレーション】けれど、ひとつだけ想像してみてほしい。「向こうから来た人」にとって、この現代はどう見えているのか。

深夜のファミレス。 注文は一つだけなのに、メニューを閉じない男がいる。落ち着きがない。男の前には、極彩色の缶が置かれている。エナジードリンクだ。男はそれを、聖水でも扱うように両手で持っている。

【男】「……この、鮮やかな色の霊薬は」

【店員】「あ、それ新商品の『ギガ・ウェイク』ですね。カフェイン2倍で」

【男】「2倍……。正気か。心臓が焼き切れるぞ」

【店員】「まあ、眠気は飛びます」

【男】「眠気という生理現象を、寿命と引き換えに消し去るのか。……この国の民は、毎日ドラゴンの群れと戦っているのですか?」

【店員】「ドラゴンというか、納期と戦ってますね」

【男】「納期……。それは古の邪竜より恐ろしいのか?」

【店員】「火は吐きませんが、胃に穴は開きます」

男は震える手でプルタブを開ける。プシュ、という炭酸の抜ける音が、彼にはファンファーレのように聞こえた。 男は知っている。向こうの世界の夜は、静寂ではない。「悲鳴」か「剣戟」か「魔獣の咆哮」だ。松明が消えれば死ぬ。見張りが寝れば死ぬ。水が濁っていれば腹を壊して死ぬ。 だがここは違う。店内は眩しいほど明るく、空調は春のように一定で、棚には毒見の必要がない食料が山積みされている。

【男】「……ここでは、水がタダで出てくる。失敗しても指を詰められない。パンが、武器にならないほど柔らかい。素晴らしい世界だ」

男は液体を喉に流し込む。心臓が早鐘を打つ。

【男】「たとえ、命の前借りを強いられても……俺は、帰りたくない」

【ナレーション】あなたの周りにも、いる。 言葉は通じるのに前提が通じない人。「エナドリ」をポーションだと信じている人。「既読」を呪いだと思っている人。そして何より、「帰りたくない」という本音を隠す人。 今日もこの街で、台帳にない隣人が息をしている。

区役所の発券機は嘘をつけない。短い電子音が鳴るたびに列が伸びる。今日は何もない日だ。給付金でもない。選挙でもない。締切でもない。なのに、人が多い。

木本透子には、特有の「持病」がある。 数字が合わない場所に立つと、軽い船酔いのような吐き気がするのだ。 住民基本台帳のデータと、目の前の物理的な人数。その総量が釣り合っていない時、世界が少しだけ傾いて感じる。彼女にとって、行政とはパズルだ。ピースが余っているのは許せない。隙間があるのも許せない。

【職員A】「木本さん、顔色悪いですけど」

【木本】「……酔いました」

【職員A】「え、ここで? 何も揺れてませんよ」

【木本】「揺れてます。データと現実の質量が合ってません。……誰か、質量のある幽霊が混ざってます」

【職員A】「怖いこと言わないでください」

本人確認の窓口が詰まっていた。スーツの男が机を指で叩いている。忙しいアピールの叩き方だ。さっきファミレスにいた男だ。 木本が書類を受け取り、住所欄を見た。目が止まる。吐き気が強くなる。ここだ。震源地は、こいつだ。

【木本】「ここ、どこですか」

【男】「住所は住所だろ。早くしろよ」

【木本】「地図にありません」

【男】「あるだろ。俺が書いたんだ」

【木本】「あるはずとあるは違います」

照合が赤くなる。男の笑いが止まる。男は苛立ち、髪を乱暴にかき上げた。耳が見えそうで見えない。隠す動きが慣れすぎている。

【男】「……金なら払う。この口座から引き落としてくれ」

【木本】「口座の開設には、住所が必要です」

【男】「ならん! これがないと困るんだ。『サブスク』が止まってしまう!」

【木本】「サブスク?」

【男】「動画見放題の契約だ! あれはすごいぞ。月額たったこれだけで、王宮の劇団より面白いものが無限に見られる」

【木本】「……娯楽のために身分を偽造するのはやめてください」

【男】「偽造ではない! これは……魂の契約なんだ。一度結んだら、死ぬまで解約できない呪いなんだろ!?」

【木本】「解約フォームが分かりにくいだけです」

男の目が泳ぐ。木本はため息をつき、内線に手を伸ばす。

【木本】「……警察呼びますね」

【男】「待て! 警察はやめろ! 騎士団は話が通じない!」

男が逃げ出す。速い。自動ドアが開くより先にすり抜ける。残像が見えるほどの速度。 木本は受話器を置く前に、苦情マップの付箋を見た。「路地裏」「不審者」「謎の光」。

【木本】「……また、あの壁か」

便利屋の助手は椅子から動かない 、尾田大地の事務所には便利屋に必要なものだけがある。脚立、養生テープ、工具箱、モップ。そこにカメラケースが混ざっているのが、この事務所のいちばん怪しいところだ。 助手の佐倉ミサキは椅子に沈んだままスマホを睨んでいた。やる気はない。口は悪い。

【ミサキ】「はー。既読スルー。死ねばいいのに」

【尾田】「朝から物騒だな」

【ミサキ】「物騒なのは相手。これ見てよ。『既読』ついてから3時間経過。これってさ、もう宣戦布告じゃない?」

【尾田】「ただ忙しいだけだろ」

【ミサキ】「甘い。現代における既読無視は、遠隔呪術の一種なの。『読みました。でも返事をする価値があなたにはありません』っていう念を飛ばしてんの。メンタル削る毒攻撃」

【尾田】「……お前、たまに異世界人みたいな発想するよな」

【ミサキ】「私は現代人。だから傷つくの。はい、今日の案件」

ミサキはタブレットを投げるように渡す。

【ミサキ】「表。商店街SNS素材。定点三枚。時間そろえて。裏。迷子と失せ物。例の路地。雑踏全景。導線。壁の前。写り込み回収」

【尾田】「またあそこか」

【ミサキ】「あと、クレーム情報。『最近、写真に変なものが写る』って」

【尾田】「心霊写真?」

【ミサキ】「ううん。画質がバグるんだって。そこだけドット絵みたいになるらしいよ」

【尾田】「……合ってないな」

【ミサキ】「?」

【尾田】「あっちとこっちじゃ、解像度が違うんだよ。向こうは24fps、こっちは60fps。だから俺たちが調整する」 尾田は道具袋を肩にかける。その背中に、ミサキが低い声で言う。

【ミサキ】「ねえ尾田さん。……今日、スタンプ送っていい?」

【尾田】「誰に」

【ミサキ】「既読無視の相手。笑顔で包丁持ってるウサギのやつ」

【尾田】「やめとけ。それは呪い返しだ」

路地の壁は撮影スポットになっていた。観光客の声が混ざり、多言語が跳ねる。 尾田は定点を三枚撮る。時間をそろえる。表の仕事は丁寧にできる。

路地の入口に制服が現れた。三田村だ。交番なのか警備なのか、本人も曖昧な立場で、今日も現場にいる。

【三田村】「便利屋さん、また変なのがいます」

【尾田】「書けないやつ?」

【三田村】「書けないし、撮れないやつです。なんか……カクついてるんです」

三田村が指差す先。壁の前に、さっきの区役所の男がいた。エナジードリンクを握りしめ、壁のグラフィティを見つめている。 そこへ木本が来た。歩幅が早い。手帳が固い。吐き気をこらえた顔をしている。

【木本】「あなた、逃げましたね」

【男】「……逃げてない。一時的な戦略的撤退だ」

【木本】「それを逃亡と言います。区役所に戻ってください。解約手続きを教えますから」

【男】「嫌だ! 解約したら……俺は、俺の楽しみを失う! あっちの世界に、サブスクはないんだ!」

男が叫んだ瞬間、周囲の空気が歪んだ。 観光客のスマホ画面が一斉にノイズを走らせる。 男の輪郭が、ふいに粗くなった。高解像度の8K映像の中で、彼だけが荒いドット絵のようにカクつく。

【尾田】「まずい。処理落ちしてる」

【木本】「処理落ち?」

【尾田】 「この世界の解像度に耐えきれてない。彼だけ画素数が足りてないんだ。このままだと空間ごとクラッシュするぞ」

尾田がカメラを構える。男が泣きそうな顔で叫ぶ。

【男】「帰りたくない! あっちは……あっちはトイレが冷たいんだ! 紙も硬い! 葉っぱで拭くと毒ダメージを受けるんだ!」

【三田村】 「具体的すぎて泣ける……!」

【男】 「パンも硬い! 歯が折れる! こっちのパンは雲みたいに柔らかいんだ! 布団も柔らかい! 俺はもう、硬い世界に戻りたくない!」

尾田の指がシャッターにかかる。

【尾田】「悪いな。同期(シンクロ)させる」

尾田はシャッタースピードを調整する。レンズのリングを回し、彼らの固有振動数に光の点滅を合わせる。 これは撮影ではない。バグったプログラムを強制終了させるための、視覚的な「再起動コマンド」だ。

フラッシュが光る。一回、二回、三回。 特定の周波数。特定の点滅。

光が弾ける。 男の姿が、ノイズと共に透明になっていく。

【男】「ああ……! 来月の……更新日が……!」

プン、という軽い電子音がして、男の座標データが消失した。 観光客がざわつく。「โอเค…?」「Magic?」「CG?」 三田村が反射で叫ぶ。

【三田村】「ARです! 最新の!」

【木本】「そんな技術力、ウチの区にはありません」

【三田村】「否定しないでよ! 収まらないから!」

男が着ていたポリエステル製の安いスーツが、中身を失ってバサリと崩れ落ちていた。

空間の境界は、どうやら「有機物」しか通さないらしい。服に混じって、軽すぎる硬貨、尖った耳を隠すための輪、そして、綺麗にセットされた「男性用カツラ」が転がっている。

【尾田】「……毛根は現代に置いていったか」

【三田村】「そこじゃないでしょ!」

木本は手帳を開き、ため息をついた。

【木本】「落とし物ですね。……いえ、粗大ゴミです」

【三田村】「ゴミで済ませる気ですか」

【木本】「済ませないと、不法投棄の処理費用で私の始末書が増えます。あなた、なぜ光らせたんですか」

【尾田】「被写体が、俺を呼んだから……」

【木本】「二度と呼ばれないでください」

【木本】「……これ」

そこには、最新型のスマートフォンが落ちていた。 こちらの世界で作られた物質だから、あちらには持っていけない。当然の物理法則だ。 画面はついたままだ。尾田が拾い上げる。

【尾田】「解約ページだ」

【ミサキ】「うわ、出た。一番タチ悪いサイト」

画面には『本当に解約しますか?』の文字と、泣いているキャラクターのイラスト。そして『アンケートに答えてポイントゲット』という甘い誘い文句。「解約する」のボタンは、背景色と同じで極端に見えにくい。

【木本】「……彼は、魔王と戦うよりも、このUI(ユーザーインターフェース)と戦っていたんですね」

【尾田】「一番難しいクエストやり残していきやがった」

【ミサキ】「これどうすんの? 放置すると毎月980円、誰かの口座から減り続けるよ」

【木本】「……役所の予算では落とせません」

【尾田】「便利屋の経費でも無理だ」

【三田村】「交番に届けられても……『持ち主が異世界人』じゃ処理できませんよ」

三人は沈黙する。 スマホの画面が、無慈悲に明るいまま輝いている。 それは、現代に残された、小さな、しかし確実な「呪い」だった。

【ナレーション】帰還は、いつも何かを残していく。説明できない空白と、説明できない月額料金。処理するのは、いつも残された側の人間だ。

深夜の路地。壁の前に「撮影禁止」の紙が増えていた。 その横に、小さく手書きの張り紙が追加されている。 『Wi-Fi使えます。ただし契約注意』

木本と尾田、ミサキが並んで歩く。

【木本】「結局、あのスマホどうしたんですか」

【尾田】「ミサキが引き取った」

【ミサキ】「解約するのに30分かかった。電話認証とかふざけんな。意地でも解約したけど」

【尾田】「お前の執念、たまに怖いよ」

【ミサキ】「既読スルーよりはマシ」

風が吹く。街の光は相変わらず明るすぎる。 けれど、その明るさが「魔王軍のいない平和」の証だと思えば、少しだけマシに見える――かもしれない。

【ナレーション】この街には、まだいる。 エナドリを飲み、既読に怯え、解約ボタンを探して彷徨う、台帳にない客たちが。 彼らにとって、この理不尽で面倒くさい現代こそが、唯一の「救い」なのだから。

――つづく

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